秀吉が攻撃を再開
この小牧・長久手の合戦では、結果的にみて、両軍の合戦らしい合戦は長久手の合戦のみであった。四月末には秀吉は楽田の本陣から撤退して岐阜城へと引き揚げ、その後は両軍主力が激突するようなことはなかった。
五月になると秀吉方は、木曽川沿いの諸城の攻撃を始めた。
まず、 加賀野の井城(岐阜県羽島市)を包囲し、七日にはこれを攻略した。ついで、十日からは竹鼻城(同前)の攻撃に向かったが、ここは地勢を見計らい水攻めにすることとした。大規模な堤防をめぐらすことになるが、既存の輪中堤防を利用したため、一週間足らずで完成したという。
秀吉が加賀野井城などの攻撃を行なった意図について、五月九日付毛利輝元宛書状においてつぎのようにいっている。
家康が小牧山城に立て籠っていっさい出てこないので、加賀野井城を取り囲めば必ず「後巻」(後詰)をするであろうから、この口へ引き出して一戦に及び討ち果たそうと待っていたところ、いっこうに出てこないので、七日にこれを攻略した。竹鼻城は明日十日から取り囲む。
すなわち、加賀野井城の攻囲などは、家康を小牧山城から引き出したうえで、兵力差にものをいわせて決戦を挑もうとするものであった。時間をかけることになる竹鼻城の水攻め戦法も、同様の意図を持ったものであることはいうまでもない。
しかしながら、家康はこの挑発には乗らず、両城とも後詰を行なうことはなかった。こうして、援軍を期待できなくなった竹鼻城の守将不破広綱は、信雄の指示もあって秀吉に降参し、六月十日に開城して長島城に去っていった。