小牧・長久手の合戦と連動していた沼尻の合戦
北条方の北関東への侵攻はきびしく、天正十一年(一五八三)九月には厩橋城(群馬県前橋市)を攻略していた。他方で、反北条方は同年十一月に小泉城(大泉町)を攻めるが攻略できず、これが前哨戦となった。
天正十二年二月になってもなお落とせずにいたところ、北条方では氏政・氏直父子が揃そろって利根川を越えて小泉城の救援に向かった。反北条方も迅速に対応し、ともに五月初めに藤岡城(栃木県栃木市)の北にある沼尻(同前)で対陣することになった。
両軍とも大軍であったというが、結局目立った合戦がないままに長期戦となった。七月十五日に沼尻の戦場から北方にある交通の要所岩船山を北条勢が攻め取ったことを契機に和睦の話が出て、二十二日に早くも和睦が成立し、翌二十三日にそれぞれ退陣したのであった。
この合戦は小牧・長久手合戦と連動していた。
佐竹氏ら反北条方は秀吉と連携しており、七月初めに上杉景勝が上野国に進出して北条方の背後を突いたのも、秀吉からの要請であった。
他方、北条氏は前年八月に氏直と督姫の婚姻が成立し、家康とは同盟関係にあった。小牧・長久手の合戦に際しては家康から援軍の要請があり、北条方でもそのための用意はしたようだが、この沼尻での対陣となったため、援軍を送ることはできなかった。
このように、この時期の関東での沼尻の合戦は、小牧・長久手の合戦とも深くかかわっていたのである。
※本稿は、『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書)の一部を再編集したものです。
『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)
弱小大名は戦国乱世をどう生き抜いたか。桶狭間、三方原、関ヶ原などの諸合戦、本能寺の変ほか10の選択を軸に波瀾の生涯をたどる。