家康方の勝利

三好隊は不意を突かれたというだけではなく、戦意も乏しかったようで、たちまち総崩れとなった。

小牧でぶつかる豊臣秀吉軍の加藤清正と徳川家康・織田信雄連合軍の本多忠勝(『大日本歴史錦繪』. 国立国会図書館デジタルコレクション  (参照 2023-08-09))

これを知った堀・長谷川隊は、岩崎城(愛知県日進市)を攻略していた先陣の池田・森隊にこれを急報するとともに、ただちに引き返して長久手の檜ヶ根で応戦し、かろうじて家康方の先陣を撃退した。

他方で、井伊直政の旗本部隊などを中心とする家康本隊は、仏ヶ根まで引き返してきた池田・森隊と激戦になった。

激しい銃撃戦と白兵戦の中で、池田恒興・元助父子は討死し、森長可も絵図によれば眉間を撃たれて即死した。別働隊はまさに壊滅的な敗戦となり、昼過ぎには戦いの決着がついた。

家康はさっそくこの勝利を、甲斐の平岩親吉・鳥居元忠宛に報じているが、「今日九日午の刻(正午頃)、岩崎口において合戦に及び、池田紀伊守(元助)・森庄蔵(長可)・堀久太郎(秀政)・長谷川竹(秀一)、そのほか大将分(身分)はことごとく、人数一万余りを討ち取った。すぐに上洛を遂げるので、本望を察せられたい」といっている。

家康方はこの勝利を、北条氏をはじめ、各方面へ大々的に喧伝した。

信雄もまた翌四月十日付の某氏宛書状で、岩崎方面において合戦に及び、大将分は皆、人数七、八千を討ち取ったといっており、さらに「さんざんくたびれたので、(花押はやめて)印判にした」といっている。同日付の吉村氏吉宛書状では、昨日巳の刻(午前十時頃)、岩崎方面で一戦に及び、一万余りを討ち取ったといっている。こちらには言い訳はないが、やはり花押ではなく黒印である。