秀吉方の敗報で京都は騒動に

これらからすれば、岩崎城から引き返してきた池田・森隊との長久手の合戦は、午前十時から十二時頃にかけて戦われたものとみられる。

先の家康書状には「卯月九日申刻」と、午後四時頃との刻付があるので、戦いから間もなくして出されたことがわかる。

また、戦いの場所が「岩崎口」「岩崎表」とあるのは、長久手古戦場から岩崎城まではわずか三・五キロメートルほどと近接しており、実際には長久手で戦われたとしても、岩崎は尾張・三河間の街道の要衝の地であることからよく知られているので、岩崎方面で戦ったといったのであろう。

さらに、討ち取った人数が七、八千から一万というのは、戦勝報告によくみられる誇張した数字であり、「顕如上人貝塚御座所日記」によれば、「その外軍兵一万余り討死」に小さく註記して、その後の情報によれば三〇〇〇ほどだったといっている。

仮に三〇〇〇としても大変な数字であり、家康方が圧勝したことには変わりがなかった。

三好隊敗走の急報は、天正十二年(一五八四)四月九日昼頃には楽田の秀吉のもとにも届けられたと思われ、秀吉はただちに大軍を率いて救援に向かい、家康との決戦を挑もうとした。

しかしながら、家康はすでに小幡城に引き揚げた後で、両軍主力の決戦には至らなかった。

家康はその日のうちに小牧山城に戻っていて、まことに鮮やかな勝利であった。家康の上洛は実際には実現することはなかったが、秀吉方の敗報が京都に伝わると、かなりの騒動になったといわれている。