さて、急がなければ。高台にある病院までは、ここから徒歩だと二十分はかかる。痛い出費だが、タクシーを使うべきか。
などと考えながら、入り口を振り返る。無意識のうちに、注がれる視線を感じていたのかもしれない。腰高窓に貼りつくようにして、年輩の男が二人、店内を覗き込んでいた。
「あら、宮(みや)さんにタクちゃん」
ひかりも、彼らに気づいた。その手招きに応じ、「宮さん」と「タクちゃん」が引き戸を開けて入ってくる。
この界隈の飲み屋には、よくいる身なりの男たちだ。フィッシングベストを着ているほうが「宮さん」で、擦りきれたキャップを被っているほうが「タクちゃん」らしい。
「時ちゃん、倒れたんだって?」と、尋ねたのは「宮さん」だ。
のっぺりとした顔が横に広く、サイドだけ残った髪は白い。すでに老人と呼べる歳なのだろうが、そのわりに肌艶がよかった。
「そうなのよ。ちょうど厨房の、このあたりに倒れていたの」
「ああ、それはそれは。時ちゃんって、いくつになったっけね」
「俺と同じだよ。七十四」
キャップ帽の「タクちゃん」が、親指を立てて己を差す。顔が長く、喋るときには唇を尖らせる癖があるようだ。
「そうだったか。まだ若いのにねぇ」
「このところ暑かったから、身にこたえたんじゃねぇか」
「関係ないわよ。血圧よ」
明日美のことなどそっちのけで、三人はあれやこれやと喋り続ける。身内であるはずの自分が、まるで一番の部外者のようだった。
帰るきっかけを失って、明日美はぽつんと立ちつくす。だがこのお喋りが終わるのを待っていたら、本当に遅刻してしまう。
「困ったねぇ、もうすぐ夏休みがはじまるのに」
「そうなのよ、夏休みなのよ」
夏休みになにがあるのか気になるが、会話に参加している余裕はなかった。
「すみません、私はこれで。あの、鍵だけお願いできますか」
ぺこりと会釈をして、「宮さん」と「タクちゃん」の脇をすり抜ける。
「今の子誰?」と尋ねる声が聞こえてきたが、説明はひかりに任せ、明日美は店の外へと踏み出した。
〈二〉
倒れた日から四日が経っても、時次郎がHCUを出たという連絡は入らなかった。
梅雨明け宣言が出された土曜の昼下がり。息苦しいほどの蒸し暑さに喘ぎながら、明日美は再び赤羽の街を歩いていた。
休日は寝溜めをする癖がついてしまっているのだろう。できることなら気温が上がる前の朝のうちに動きたかったのだが、うっかり二度寝をしてしまった。そのせいで一日のうちで一番気温の高い時間帯に、出歩く羽目になっている。
時次郎にはどうせ会えないから病院には寄らず、駅からまっすぐ「まねき猫」へと向かう。赤羽は千円でべろべろに酔える酒場、略して「せんべろ」で有名だ。駅の東口を出てすぐの赤羽一番街は、通りが見事に飲み屋で埋め尽くされている。
他の通りも飲食店がやけに多く、たいていが昼前から酒を出す。中には朝早くから開店する老舗もあり、勤勉なのか怠惰なのかよく分からない街だ。近年は特にメディアで取り上げられることも多く、昼夜を問わず酔客で溢れかえっている。
今日は土曜とあって地元の呑兵衛たちだけでなく、観光気分の客も多いようだ。早くも千鳥足になっている集団を避けながら、明日美はキャップを目深に被ってうつむきがちに先を急ぐ。
それにしても、賑わっている。数年前にはじまった新型コロナの流行ではこのあたりの店も営業の自粛を強いられたに違いないのに、空き店舗は目立たず、人出も回復したようだ。
もっとも何軒かの老舗以外は見知らぬ店やチェーンの居酒屋に替わっており、それが流行病のせいなのかどうかは分からない。なにしろ明日美は十年間、この地元にまったく寄りつかなかったのだ。
偶然昔の知り合いに会ったとしても、もはや気づかれないかもしれない。それでも明日美は念のため、キャップの鍔をさらに引き下げる。この近辺には、小学校時代の同級生の実家が点在している。
なにしろその小学校じたいが、飲み屋街のど真ん中に位置していた。児童は雨の日も風の日も、酔っ払いどもを横目に見ながら登下校をする。教育上よろしくないような気もするが、案外治安は悪くない。酔客たちの目が抑止力になり、子供たちを狙う不審者が街に入り込みづらいのだ。
この街の子供たちは酔っ払いに見守られつつ、彼らを反面教師にして育ってゆく。