「それで、どうなの。お父さんの容態は」
梅野ひかりの見た目に触発されて昔のことを思い出したせいで、会話が不自然に止まっていた。同じ問いを重ねられ、明日美はハッと我に返る。
「今は、HCUで処置をしてもらっています。命に別状はないみたいですが、体に麻痺が残るらしくて――」
「そう」
ひかりは時次郎の不運を嘆くでも、娘の明日美を気遣うでもなく、短く答える。やさぐれたように煙草を吸う仕草からは、彼女自身の悲しみや狼狽を読み取れなかった。
なんだか、クールな人だな。
明日美にとっては、それがありがたい。大袈裟に悲しまれたり、心配をされてしまったら、自分の感情が追いつかない。時次郎が一命を取り留めたことが嬉しいのかどうかも分からないのだから、相手に調子を合わせるだけで疲弊しそうだった。
そう思った矢先、ひかりは盛大に煙を吐き出してから、短くなった煙草を足元に落とした。さらにはそれを、サンダルを履いた足で踏み消す。
「ええっ!」と、驚愕が声になってほとばしった。
昨今は喫煙率の低下で、道端にすらあまり吸い殻は落ちていない。それなのに、屋内でポイ捨てをする猛者がいるとは。信じられない光景を見てしまった。
「ああ、これはいいのよ。この店は喫煙可なんだけど、灰皿は置いてないの」
ひかりはさっき壁に立てかけたばかりの箒とちり取りを手にすると、吸い殻をサッと掃き取ってゴミ箱に捨てた。つまりは床が、灰皿代わり。マナーもへったくれもあったものじゃない。
そういえば新婚旅行でスペインに行った際に、バルの床がゴミだらけで驚いたことがあった。客が使用済みの紙ナプキンやスティックシュガーの空袋なんかを、どんどん床に捨ててゆくのだ。向こうではそれがあたりまえで、むしろ床にゴミが多いほうが、人気店の証なのである。
あのとき明日美は床にゴミを捨てるのにどうしても抵抗があって、カウンターに置いたままにしてしまった。これはもうどうしようもない、文化の違いだ。まさか父親が経営する店で、同じようなカルチャーショックを覚えることになるとは思わなかった。
そうか、文化の違いか――と、ふいにひらめく。
時次郎とその周囲の人々に明日美が馴染めないのは、きっと生まれ持った文化が違うからだ。同じ国に生まれ育っていても、親子でも、文化には個人レベルの差異がある。お互いに日本語を喋っているはずなのにいまひとつ通じないのも、おそらくそのせいなのだろう。
長年の疑問に、一つの答えが見つかった。かといって父親の受難を悲しまなくていい理由にはならないが、幾分すっきりしていた。
なんてことを、呑気に考えている場合ではない。壁掛け時計に目を遣って、明日美は自分のなすべきことを思い出す。ぐずぐずしていたら、仕事に遅刻してしまう。
「あの、すみません。父の保険証と身分証が必要なんですが、どこにあるか分かりますか」
「それならたぶん、この中ね」
言うなりひかりはくるりと身を翻し、ステンレス製の吊り戸棚を開けた。そこには調味料のストックが収納されているようで、一番端にはなぜか牛革の財布が立てて置かれていた。
「厨房に立つとポケットの財布が邪魔だから、ここに入れちゃうのよね」
差し出された財布は使い込まれて変色し、擦りきれていた。開けてみるとカード入れに、保険証と運転免許証が入っていた。
その際に札入れの中身まで覗けてしまったが、必要なものだけを抜いてあとはひかりに返した。千円札が数枚しか入っていなかったことについては、見て見ぬふりをした。
「悪かったわね。救急車を呼んだときに保険証も持たせればよかったんだけど、そこまで頭が回らなくて」
時次郎の近況については、明日美よりもひかりのほうが詳しいのだろう。財布がそんなところに入っているとは思いもしないから、一人では見つけられなかったに違いない。ここにいてくれたことをありがたいと思う反面、娘の前で勝手知ったる振る舞いをする彼女を、図々しいとも感じていた。
「助かりました。でもあの、片づけなどは後日私がやりますので」
控えめに、今日はもう帰ってくれと伝える。いくら恋人であっても、父の不在中に上がり込まれたくはなかった。
「そうね、もう帰るわ。ちょっと気になって、様子を見に来ただけだから」
あっさり引き下がってくれて、ほっとする。ひかりは時次郎と同棲しているわけではなく、帰る家があるようだ。
「ありがとうございました。お礼はまた、あらためて」