時次郎は明日美にとって、反面教師の最たるものだった。

 アパートの家賃収入があるのをいいことに、昼間っからそのへんを飲み歩くかパチンコか。友人との下校途中に酩酊した時次郎と出くわして、「よぉ、明日美!」と手を振ってくるのを何度無視したかしれない。ちょっと好きだった男子から「お前の父ちゃん、ゲロまみれになって道端で寝てたぞ」とからかわれ、淡い恋心が砕け散ったこともある。

 あんな大人にはなりたくないし、あんな男も好きにはならない。真面目に生きて、誠実な人と結婚し、ささやかでも幸福な家庭を築くことが目標だった。子供ができたら夜に一人で留守番なんかさせないし、誕生日やクリスマスは必ず一緒に祝おう。間違っても自分の子供に「お前、いくつになったっけ」と、尋ねるような親にはなるまい。

 だから明日美はぐれなかったし、成績もそこそこのラインをキープしていた。スーツ姿で出勤するサラリーマンの父親を持つ友達が、羨ましくてしょうがなかった。

 だが、娘にとっては災厄のような男でも、時次郎はよくもてた。元来陽気なタイプだから、一緒に飲み歩くぶんには楽しいのだろう。誰とでもすぐ仲良くなり、調子よく奢ってやったりもしていた。老若男女を問わず、時次郎はいつも人に囲まれていた。

 立ち飲み屋を経営するに至ったのも、人の縁あってのことである。常連として通っていた飲み屋の主人が高齢になり、二階の住居部分ごと居抜きで引き継いでもらえないかと持ちかけてきた。時次郎ときたら酔った勢いでそれを承諾し、持っていたアパートを売り払ってまで、「まねき猫」の土地と建物を手に入れたのだった。

 本当に、冗談じゃない。

 時次郎がいかにちゃらんぽらんでも、あのアパートさえあれば老後もなんとか一人で生きていってくれるだろうと思っていたのに。よりにもよって生き残りが難しい、飲食業に手を出すなんて。

 当時夫だった人と遠く離れた地に暮らしていた明日美は、事後報告でそれを知った。「信じられない!」と、電話口で時次郎を罵倒した。「経営に失敗しても、絶対に手を貸さないからね」とまで宣言した。まともに働いたことのない時次郎に、飲食店の経営など務まるはずがないと思っていたのだ。

 あれから十六年。どれほどの利益が出ているかは知らないが、「まねき猫」は潰れることなく、コロナ禍すらも乗りきった。自然と人が寄り集まってくる時次郎の特性が、居酒屋経営には向いていたのかもしれなかった。

 だけどもう、あの店もおしまいね。

 保険証と身分証を届けた際に、担当医師からあらためて、時次郎に残る麻痺はきわめて強いものだろうと告げられた。今後は介護が必要になるだろうとも。

 飲食店など、とてもじゃないが続けられない。

 介護か――。

 それを考えると、ますます気持ちが重くなる。明日美は四十二歳。親の介護などもう少し先の話と思っていたのに、案外早くきてしまった。

 フルタイムで働きながら時次郎の面倒を見るのは、無理がある。かといって仕事をやめたら収入がゼロになり、生きてはゆけない。結果として施設に入れることになるだろうが、お金はどれほどかかるのか。非正規雇用の身としては、頭が痛い。

 もやもやとした不安が、胸の中に渦巻いている。場合によっては、ダブルワークをする必要も出てくるかもしれない。でもなぜ自分があの時次郎のために、そこまで頑張らなければならないのだろう。

 時次郎は、真面目に働いて娘を育て上げ、結婚式の披露宴では両親への手紙で涙する、そんな父親では決してない。学校が休みの日に珍しく「出かけるぞ」と誘ってくれたと思ったら、「飯食ってくるから代わってくれ」と子供にパチンコを打たせ、挙げ句忘れて帰るようなろくでなしだ。時次郎を人目にさらしたくなくて、二十五歳で結婚した際には式を挙げなかった。それでも血の繋がった父親だからという理由で、子供が面倒を見なければならないのか。

 ああ、駄目だ駄目だ――と、首を振る。介護のことは、一人で悩んでいてもしょうがない。プロであるソーシャルワーカーがいるのだから、相談して決めてゆこう。

 それよりまずは、目の前のことから片づけていかねば。今日は「まねき猫」の、冷蔵庫の中身を整理しにきたのだ。

 赤羽一番街の通りから、さらに路地へと入る。その次の角を越えた先が、「まねき猫」のある一角だ。店が近づくにつれて、明日美の顔はどんどん険しくなっていった。

 はたして、「まねき猫」の入り口のシャッターは、開いていた。引き戸も全開になっており、中に入りきらなかったらしい客が路上にホッピーのケースを積み上げ、テーブルにしてビールジョッキを傾けている。さほど広くもない店内には酔客が詰め込まれ、彼らの吐き出す煙草の煙に霞んでいた。

 なにこれ。どういうこと?

 時次郎がここにいるはずもないのに、店はあたりまえのように営業している。しかもずいぶん賑わっているではないか。

 冷蔵庫の片づけが済んだら『店主急病のため、休業いたします』とかなんとか、貼り紙をしておこうと思っていた。それなのに、いったい誰の権限で店を開けているのだ。

 明日美は入り口に立ち、首を伸ばして店内を窺った。カウンターの奥に肘をつき、先日会った「宮さん」と「タクちゃん」が焼酎らしきものを飲んでいる。そんな彼らと談笑しながら厨房でつまみを作っているのは、黒いレースのワンピースにエプロンを着けたひかりだった。

「ちょっと、なにしてるんですか!」と、客の頭越しに文句をつける。

 気配に気づいて、ひかりがこちらに顔を向けた。喧噪に紛れて声までは届かなかったようで、「あら」と言いたげに目を見開く。

 ローズピンクに彩られた唇が、「いらっしゃい」と言葉を刻むのが分かった。

 

家に来たばかりの頃の、坂井家のうめ様(写真提供:坂井さん)

 

 

 

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