「感状などで喜んでいる場合ではないのだ」

飯田は言葉を続けた。

「奥地空襲で全弾命中、なんて言っているが、重慶に60キロ爆弾1発を落とすのに、諸経費を計算すると約1000円かかる。敵は飛行場の穴を埋めるのに、苦力(クーリー)の労賃は50銭ですむ。実に2000対1の消耗戦なんだ。こんな馬鹿な戦争を続けていたら、いまに大変なことになる。歩兵が重慶、成都を占領できる見込みがないのなら、早くなんとかしなければならない。感状などで喜んでいる場合ではないのだ」

『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人々は何を語ったか』(著:神立尚紀/講談社ビーシー)

海軍兵学校のクラスメート・志賀淑雄の回想によると、飯田は「お嬢さん」というニックネームで呼ばれ、温厚、寡黙で、気性の荒い者が多い戦闘機乗りにはめずらしく、気品を感じるほどの「貴公子」だったという。だがいったん空に上がれば、その負けず嫌いで闘志旺盛なことも比類がなかった。

空母「蒼龍」戦闘機分隊長になった飯田は、昭和16(1941)年12月8日のハワイ・真珠湾攻撃に、第2次発進部隊の「蒼龍」零戦隊を率いて参加した。