昭和16年、富士山をバックに飛ぶ零戦二一型。飯田大尉が撮影した(写真:『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人々は何を語ったか』より)
1945年8月15日に太平洋戦争が終結してから78年目を迎えた現在、軍人として戦争を経験した人の数も少なくなりました。そのようななか、28年前から、戦争体験者にインタビューを続け、語り継いでいるのは、報道写真家の神立尚紀さん。今回は、神立さんが行った多くの取材のなかから、中国戦線で零戦隊を指揮した飯田房太海軍大尉についてのお話を紹介します。

「こんなことでは困るんだ」

昭和15(1940)年9月13日、重慶上空で、進藤三郎大尉が率いる第十二航空隊の零式艦上戦闘機(零戦)13機は中華民国空軍のソ連製戦闘機三十数機と空戦、一機も失うことなく27機を撃墜(日本側記録)するという一方的勝利をおさめた。零戦は7月に海軍に制式採用されたばかりで、新鋭機にふさわしい、華々しいデビュー戦だった。

重慶で壊滅的損害を被った中国空軍は成都に後退し、そこで再建を図ったが、10月4日、こんどは横山保大尉が率いる零戦8機が成都の中国空軍飛行場を急襲、6機を撃墜、19機を地上で炎上させた。

翌10月5日には、飯田房太(ふさた)大尉が指揮する零戦7機が成都の中国空軍に追い打ちをかけ、地上銃撃で10機を炎上させている。飯田大尉はさらに10月26日には8機を率いて10機を撃墜する戦果を挙げた。

中華民国空軍の主力を事実上壊滅させた第十二航空隊零戦隊に、同年10月31日、支那方面艦隊司令長官・嶋田繁太郎(しまだしげたろう)中将より感状が授与された。

祝勝ムードの十二空で、1人浮かぬ顔の士官がいた。10月5日、26日の成都空襲で零戦隊を率いた飯田大尉である。飯田はすでに空母「蒼龍(そうりゅう)」分隊長への転勤の内示が出ていて、まもなく十二空を離れることが決まっていた。

祝宴に同席していた角田和男(つのだかずお)一空曹は、「奥地攻撃でわれわれに感状が授与され、みんな喜んでいる中で、飯田大尉が、『こんなことでは困るんだ』と言っていました」と回想する。