煙のなかへ消えていく飯田機
12月8日、「蒼龍」戦闘機隊は、菅波政治(すがなみまさはる)大尉率いる9機が第1次、飯田大尉の率いる9機は第2次として発進することになった。藤田中尉は第2次発進部隊である。
「この日、オアフ島上空は雲が多く、断雲の切れ目からかろうじて海岸線が見えた。いよいよ戦場だ、そう思ったとたん、体が震えるほどの緊張を覚えました。我々第2次発進部隊が真珠湾の上空に着いたときには、すでに1次の連中が奇襲をかけたあとですから、敵は完全に反撃の態勢を整えていました。後ろを振り返ると、わが中隊が通った航跡のように、高角砲の弾幕の黒煙が連なってるんですから。敵がもうちょっと前を狙っていたら私たちは木っ端微塵になったところです。
はじめ空中には敵戦闘機の姿が見えなかったので、作戦で決められた通りにカネオヘ飛行場の銃撃に入りました。目標は地上の飛行機です。飯田大尉機を先頭に、単縦陣で9機が一直線になって突入しました。地上砲火は激しくて、アイスキャンデーのように見える曳痕弾(えいこんだん)が自分に向かって飛んでくる。
当たるかな、と思うと、直前でピッという音を残して上下左右に飛び去ってゆく。あまり気持ちのいいものではありませんね。3度ぐらい銃撃したところで、ガン、という衝撃を感じて、見ると右の翼端に銃弾による穴が開いていました。
そこで爆煙で地面が見えなくなったので、ホイラー飛行場に目標を変更して2撃。ここでも対空砲火は激しかった。飛んでくる弾丸の間を縫うように突っ込んでいったんですからね。
ホイラー飛行場の銃撃を終え、飯田大尉の命令(バンク―機体を左右に傾ける―による合図)により集合してみると、飯田機と2番機の厚見峻一飛曹機が、燃料タンクに被弾したらしく、サーッとガソリンの尾を曳いていました。
これはやられたな、と思って飯田機に近づくと、飯田大尉は手先信号で、被弾して帰投する燃料がなくなったから自爆する、と合図して、そのままカネオヘ飛行場に突っ込んでいったんです。私からその表情までは見えませんでしたが、迷った様子は全然ありませんでした。分隊長は、ミーティングで自ら言った通りに行動されたわけです。煙のなかへ消えていく飯田機を見ながら、涙が出そうになりました─。
当時、戦意高揚のために、飯田大尉は格納庫に自爆したのを私が確認したように報道され、戦後も映画でそのように描かれたりしましたが、煙に遮られてそこまでは見えませんでした」
じっさいに飯田大尉機が墜ちたのは、カネオヘ海兵隊基地の敷地内ではあるが、格納庫や滑走路から1キロは離れた、隊門にほど近い道路脇である。米側の証言記録によると、飛行場に突入してきた飯田機は、対空砲火を受け低空で火を発したが、最後の瞬間までエンジンは全開で、機銃を撃ち続けていたという。飯田大尉の遺体は機体から引き出され、米軍によって基地内に埋葬された。墜落地点には、真珠湾攻撃30周年にあたる昭和46(1971)年、米軍が小さな記念碑を建てた。
支那事変ですでに戦争の無謀さに気づき、はっきりと悲観的な考えをもっていた飯田は、出撃前に部下たちに語った通りに自爆した。敵飛行場をめがけてまっしぐらに降下しながら、飯田の胸中に去来したものはなんだったのだろうか。
※本稿は、『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人々は何を語ったか』(講談社ビーシー)の一部を再編集したものです。
『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人々は何を語ったか』(著:神立尚紀/講談社ビーシー)
「戦争は壮大なゲームだと思わないかね」――終戦の直前、そううそぶいた高級参謀の言葉に、歴戦の飛行隊長は思わず拳銃を握りしめて激怒した。
「私はね、前の晩寝るまで『引き返せ』の命令があると思っていました」ーー艦上攻撃機搭乗員だった大淵大尉が真珠湾攻撃を振り返って。
「『思ヒ付キ』作戦ハ精鋭部隊ヲモミスミス徒死セシメルニ過ギズ」ーー戦艦大和水上特攻の数少ない生存者・清水芳人少佐が、戦艦大和戦闘詳報に記した言葉。
「安全地帯にいる人の言うことは聞くな、が大東亜戦争の大教訓」――大西中将の副官だった門司親徳主計少佐の言葉。