土方家のその後

いったんは浪人となった雄氏ですが、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い直前に家康から罪を許され、徳川家の家臣となります。同年、近江国内に2000石を加増され、改易前の1万石と合わせて1万2000石で菰野藩を立藩しました。

その後、雄氏の子孫は連綿と続き、12代の雄永のときに明治維新を迎えました。菰野藩は年貢の取り立てが厳しくなく、江戸時代を通じて農民一揆が起きなかったそうです。

さて、最後の菰野藩主は土方雄永ですが、この方は病弱だったので一族の雄志(かつゆき)を養子として、当主の座を引き継ぎました。

雄志は明治政府から子爵に叙せられ、貴族院議員として活躍しました。彼の14歳下の実弟は第12代の日銀総裁、土方久徴(ひさあきら)です。雄志や久徴は近代日本の人物なので、独特な名前の読み方は様々な資料から確認できます。

菰野の土方家の殿さまは、代々の名前に「雄」の字がつきます。その流れを承けた土方雄志は「かつゆき」である。となれば、初代の雄氏も「かつうじ」と読んだのだろう、と推測できます。

ここまではよろしいでしょうか?