だが親子関係がここまで悪化してしまったのは、明日美だけが悪いのか。そりゃあこちらも頑なになりすぎていたかもしれないが、元々は時次郎が明日美を粗略に扱ってきたせいだ。「時ちゃんのこと分かっている」と言う「タクちゃん」こそ、明日美のなにを分かっているというのだろう。
だいたい今は、そんな話をしているんじゃない。経営権の問題だ。いくら時次郎と仲がよくても、店の常連であったとしても、立ち入れない領域がある。
「あの、お言葉ですが――」
「まぁまぁ、ちょっと待って」
とても黙ってはいられず、つい切り口上になる。しかし「宮さん」が文字通り間に割り込んできて、明日美に向かって両手を突き出し、上下させた。
「落ち着いて話をしましょう。ねっ」
なんだそれは。ますますこっちが悪者みたいだ。
口を開けてももはや声にならず、明日美は酸素不足の金魚のように喘ぐ。この人たちを相手にしていると、血圧が上がって倒れそうだ。
「ほら、むきにならないで。こっちの話も聞きなさいってことよ」
ひかりがまたもそっぽを向き、肺の底から煙を吐き出す。そのまま煙草を足元に落とし、サンダルで踏み潰した。
――さっき、掃いたばかりなのに。
怒りが冷めて、だんだん虚しくなってくる。そうだこの人たちとは、文化が違うのだ。直接交渉するよりは、代理人を立てたほうがいいのかもしれない。
次から次へと、問題ばかり。これだから、時次郎とその周辺に関わるのは嫌なのだ。
「いいえ、もういいです。ただこれ以上営業を続ける気なら、こちらも弁護士を立てます」
弁護士のあてはないし、金銭的余裕もないが、明日美は脅し半分でそう口にした。
それを捨て台詞とし、身を翻して帰ろうとする。どのみち終電の時間が差し迫っていた。
脇を通り抜けようとすると、ひかりが腕を突き出してくる。通せんぼをされた形になり、明日美はいったん足を止めた。
「借金があるのよ」
「えっ?」
仰天して、横顔を見せたままのひかりに向き直る。
明日美が話を聞く気になったと見て、ひかりは突き出していた腕を下ろした。
「時次郎さんだけじゃなく、ここらへんの飲食店はコロナのせいで皆借金まみれよ。給付金や協力金なんかで、足りるはずないし」
流行病が猛威を振るい、度重なる緊急事態宣言により飲食店が窮地に陥ったことは、いまだ記憶に新しい。行政からの給付金などでは損失を穴埋めできず、廃業に追い込まれた事業者も多かったはずだ。
十年ぶりに訪れたこの街を歩きながら、老舗がまだ生き残っていると無責任に考えたりもした。だがそのために経営者は、血眼になって運転資金をかき集めたのだろう。「まねき猫」だって、例外ではない。
ちょっと考えてみれば分かること。いくら借りているのかと思うと、ギュッと心臓が引き絞られた。
「まさか、闇金?」
こんな小さな立ち飲み屋に、銀行の融資が下りるはずもない。街金の中には怪しげな業者もあるというし、時次郎のことだから、甘い言葉に誘われて違法営業の業者に手を出した可能性がある。
「いいや、それはない。金を貸してるのは俺だよ」
「宮さん」が首を振り、親指で己を差す。
最悪の事態は回避できたようで、明日美は胸を撫で下ろした。
「この人こう見えて、土地持ちだから」
ひかり曰く、「宮さん」は駅前の雑居ビルをいくつか所有しているという。失礼ながら、人は見た目じゃ分からぬものだ。時次郎の窮地を見かね、無利子で金を貸してくれたらしい。
「だけどね、この先も店を続けてくってのを条件に貸してるわけさ。そちらの都合で閉めるってんなら、耳を揃えて返してもらわないとね」
俵型のおむすびのような顔をして、「宮さん」はなかなか世知辛いことを言う。その隣では、金の貸し借りに関わっていないはずの「タクちゃん」が、同意するように小刻みに頷いている。
八年前に離婚してからずっと、明日美は正社員になれず派遣で働いている。収入は自分一人を養うのにギリギリの額で、それでもちまちまとお金を貯めて、貯金はなんとか五十万円。人生いつなにがあるか分からないから、大事に取っておきたい虎の子だった。
その金を、時次郎の借金の返済に充てるなんて身を切られるように辛い。でも今は、四の五の言っている場合ではない。
「おいくらほど、お借りしているんですか?」
問いかけてから、明日美はごくりと唾を飲む。
「一応ね、借用書を持ってきてあるんだよ」
そう言って「宮さん」は、フィッシングベストの胸ポケットから一枚の紙を取り出した。
ワープロソフトで作ったと思しき、借用書だ。借主の住所氏名の欄には、たしかに時次郎の筆圧の強い文字が並んでいる。その金額欄に目を走らせ、明日美は思わず「うっ!」と呻いた。
『金参百萬円也
私は貴殿より、上記金額を借用いたしました』