〈三〉
立ち飲み処「まねき猫」の営業時間は、夜十一時まで。
土曜日は特に忙しいから出直してくれとひかりに言われ、いったんマンションの自室に帰り、溜め込んだ家事をこなすなどしてから戻ってきた。
赤羽の老舗居酒屋は、昼前からやっているぶん、閉まるのも早い。店から吐き出された酔客が、二、三軒目を求めてチェーンの居酒屋やバーに吸い込まれてゆく。明日美が「まねき猫」に到着したときも、ちょうど最後のひと組が「もう一軒、もう一軒行こう!」とよろめきながら出てきたところだった。
入り口に立って中を覗いてみると、営業終了後の店内は惨憺たるものである。灰皿代わりだという床には、吸い殻どころか使用済みの紙ナプキンやティッシュまで散らばっており、これでよくボヤが起きないものだと思う。足を踏み入れるとスニーカーの裏がねちゃりとして、思わず顔をしかめてしまった。
「ああ、明日美さん。悪いんだけど、シャッター半分下ろしてくれない?」
厨房で洗い物をしていたひかりが、明日美に気づいて顔を上げる。少しも悪いと思っていない口振りだが、まだやっていると勘違いした客に入ってこられても困るのはたしか。明日美は言われたとおりに、シャッターを半ばまで引き下ろした。
「待ってて、片づけちゃうから」
ピンクのゴム手袋をはめて、ひかりは手早く食器類を洗ってゆく。シンクやその周りにはまだ空のジョッキや汚れた皿がひしめいており、待つといっても当分かかりそうだ。
「手伝います」
じっとしているのも気詰まりで、明日美は厨房の壁に立てかけてあった箒とちり取りを手に取った。
どのみちこの床を綺麗にしなければ、落ち着いて話もできない。箒の柄が短いので、身を屈めて掃きはじめる。
「ありがと」
礼を言われてもなにも返さず、黙々と手を動かした。
床には食べこぼしや飲みこぼしがあり、しかも客に踏み荒らされているものだから、煙草のフィルターや紙ナプキンが貼りついて箒で掃いただけではなかなか取れない。手で取るのは抵抗があり、ちり取りをヘラのように使ってかき集めてゆく。
「ざっとでいいよ。明日の朝水を撒いて、デッキブラシでこするからさ」
解れて散らばった煙草の葉に難儀していると、ひかりが話しかけてきた。床が土間になっているのは、そういった利便性のためらしい。
「はぁ」
生返事をしながら明日美は身を起こし、痛みはじめた腰を叩く。不自然な姿勢を取っていたせいで、負荷がかかってしまったようだ。灰皿とゴミ箱を設置するだけで掃除の手間はかなり省けるだろうに、やっぱりこの店の方針は理解に苦しむ。
常識が通じるとは、思わないほうがいいかもしれない。
なにしろここは、時次郎の店だ。その周りにいる人たちも、きっと似たり寄ったり。そうでなければ店主が不在の店を、勝手に開けたりするものか。今日の昼間にここへ来るまで、明日美は「まねき猫」が通常営業しているとは思ってもみなかった。
時折腰をさすりながら、引き続き床のゴミを掃いてゆく。
洗い物を終えたらしいひかりが厨房から出てきて、カウンターやテーブルを拭きはじめる。派手な見た目とは裏腹に、その仕事ぶりはきっちりしていた。