長可が命がけで奮闘せざるを得なかった理由

なお遺言状が記された3月26日というと、長可の妻の父である池田恒興が実質的な大将を務める2万の別働隊が三河に向けて出発する準備をしていたときにあたります(出発は4月6日夜)。ドラマでは「中入り」と表現されていましたね。

実は、この段階で長可はすでにポイントを落としています。一週間ほど前に小牧山城の占拠を試みて徳川方と合戦になり、敗北を喫していたのです(羽黒の戦い)。

だから汚名を返上するためにも、次なる戦いでは一層命がけで奮闘しなくてはならない。

いや、それだけではないでしょう。ぼくは池田恒興ら2万を「囮部隊」だと解釈しています。いわば、家康を小牧山城からつり出すための「エサ」。

家康がこれに食いついたら、兵数の点で遙かに優勢な秀吉軍がすみやかに捕捉し、叩く。これが秀吉の作戦(ドラマでは「池田の献策」扱いになっていましたが、ぼくは秀吉のプランだと思います)。

でも、実際に戦場に出る身としては、それは「机上の計画」にすぎない。

「徳川殿の勢力圏に侵攻するのか。敵のまっただ中じゃないか。ああ、これは生きて帰れないな」。

長可はそう考えたからこそ、遺言状を書き、戦奉行の尾藤知宣に託したのでしょう。