「荒ぶるもの」を理解する。それは自分の中にもあると、希林さんはおっしゃいました。たとえば夫の内田裕也さんのような激しさ、いや、それ以上の激しさが自分のなかにもある。裕也さんが先に出してくれるから、自分は冷静でいられるだけだって。
それはがんも同じだとおっしゃっていました。自分の体の中にあるがんを否定して闘うのではなく、「こうなったのも、わかるよ。わかるよ」と思っていたいと。
命は接ぎ木のように受け継がれる
希林さんは、死を前にしてどこまでも成長を続けていきました。それは多くの珠玉の言葉として残り、メディアを通して人々のもとへ届けられた。そして受け取った人の心の中で、その種は芽吹きます。そして希林さんの命は、周りの人たちをも成長させていくのでしょう。
でも正直に言うと、それができるのは希林さんだけではありません。死を前にして成長しなかった人を、私は見たことがない。希林さんのようにユニークな表現で言葉を残せるかどうかというだけの違いなのです。
家族でも友人でも、誰かがその方のそばにいて、人生のゴールまで伴走していれば、人は亡くなる瞬間まで成長し続け、希林さんと同じような境地へ辿り着くことができる。家族や友人のいない方でも、 周りに助けを求めることをためらいさえしなければ、手を差し伸べてくれる人は必ず見つかります。
私はいつもターミナルケアに携わるとき、「最後にどんなことを大切な人に残し、この世を卒業したいですか?」とお聞きしています。
希林さんにも聞きました。「最後になんと言いたいですか」と。希林さんだけでなく、これまで私がそう聞いた患者さんは、全員が全員、同じことを答えました。「ありがとうと言いたい」と。
誰に? 也哉子に。裕也に。孫に。みなさんそうおっしゃる。普通、元気なうちはそういう問いを自分に投げかけない。でも命の終わりを見つめ、そのときに何を残したいかと真剣に考えると、残された日々で何をすればいいかがおのずと見えてきます。希林さんのように考える時間がたっぷりあれば最高です。