けっきょく、お金なのね。
店を閉めるとなると「宮さん」への借金返済のみならず、時次郎の入院費の支払いが明日美の肩にのしかかってくる。退院後の介護費用も、毎月どのくらい必要になるのか。
一方、店を続けるならば、明日美はひとまずそれらの負担から解放される。店はひかりに任せればいいというのだから、手間もない。だが彼女のことをどこまで信用していいのか、まだ分からない。
頭痛がだんだんひどくなってきた。明日美はこめかみを揉みながら、みしりみしりと軋む階段を上ってゆく。一泊ついでに時次郎の通帳やカード類を捜さなければいけないが、ひとまずは横になるとしよう。
二階は、廊下の端に洗面台と洗濯機置き場があり、六畳間が二つ並んでいる。どちらも襖が開けっぱなしになっており、中に収まりきらなかった物が廊下に雪崩れを起こしている。
目を半ば閉じかけていた明日美は、階段の最後の一段で立ち止まった。
――そういえばあの人が、掃除や片づけをしているところを見たことがなかったわ。
大量のペットボトル、衣類や日用品、積み上げられた段ボール、無秩序に散らばる古新聞や郵便物。七月も半ばを過ぎたというのに、箱に入ったままの鏡餅まで転がっている。
生ゴミはないのか、悪臭が充満していないのがせめてもの救いだ。でも足元は埃っぽく、スリッパを履かずに歩けば靴下の裏が真っ黒になりそうだった。
手前の部屋に見える敷きっぱなしの布団は、いつからあのままなのだろう。見るからに汗と湿気を吸い込んでいそうで、とてもじゃないが、あそこで寝る勇気は出ない。
――勘弁してよ。
この部屋もゆくゆくは、明日美が片づけねばならないのか。時次郎の尻拭いばかりで、嫌になる。
本当に、疲れた。壁に手をつき、ふらつく体を支えながら、明日美は階下へと引き返してゆく。
とにかく今は、涼しくて清潔な場所で眠りたい。駅前まで行けば何軒か、漫画喫茶があるはずだった。
時次郎が一般病棟に移ったとの知らせを受け取ったのは、漫画喫茶の個室でたっぷり眠り、シャワーを浴びたあくる朝九時のことだった。
今後についての説明があるというので、明日美はコンビニで買った化粧水と乳液で顔を整えて、高台にある病院へと急いだ。まだ朝のうちとは思えぬほど太陽が照りつけて、体表が溶けているのではないかと疑うくらい汗が出る。昨日と同じ服と下着なのも、気持ちが悪かった。
病院に着くと担当医が多忙とのことで、ずいぶん待たされた。エアコンが効いているのはありがたいが、今度は汗が冷えて寒気がする。このままでは夏風邪をひきそうだと、自動販売機で温かいカップコーヒーを買い求めた。
その後医師から受けた説明は、先日のものとあまり変わりがなかった。CT画像によると右脳の大部分が白くなっており、それが出血の範囲だという。入院直後の画像と見比べると、その範囲は少しばかり小さくなっているようだった。
「どうします、会って行かれますか?」
担当医師は、明日美よりも若そうな爽やかな青年だった。感情は交えず、でも事務的には聞こえない絶妙の語り口で説明を終えると、そう尋ねてきた。
「会えるものなら」と、明日美は曖昧に頷いた。
医師の先導で相談室を出て、リノリウムの床を踏んでゆく。流行病が五類感染症に位置づけられてから面会制限は緩和されたが、まだ家族以外の者は対象にならないという。そのせいか廊下では一般人に行き合わず、看護師だけが忙しなく動き回っていた。
明日美は胸の前でぎゅっと手を握る。もしかしたら、緊張しているのかもしれない。ただでさえ、時次郎の顔を見るのは十年ぶりなのだ。
「俺たちのほうがよっぽど、時ちゃんのこと分かってるのにさ」
悔しげにそう呟いた「タクちゃん」の顔を、ふと思い浮かべる。本当に、そのとおりだ。明日美は時次郎の、今の風貌すらよく知らなかった。
だがどんなに親しくとも、家族でなければ面会すら叶わない。入院に伴う各種手続きや行政の対応などに駆り出されるのは、けっきょく疎遠だった娘である。責任を負わずにすむ友達なら、そりゃあ気楽なもんだ。