前を歩く医師が、引き戸が開いたままの大部屋にするりと入ってゆく。605号室。どうやら六人部屋のようだ。時次郎は、一番手前のベッドに寝かされていた。

 ぎょっとして、入り口付近に立ち止まる。記憶にあるよりシミとシワと脂肪が増え、代わりに頭髪の乏しくなった男が、経鼻チューブや各種機器に繋がれ横たわっている。体の大きさも相俟って、人というよりは打ち上げられた鯨のようだ。その顔からはあらゆる表情が抜け落ちて、濁った目が半眼に開かれている。

「あれっ、寝ちゃったかな」

 薄目が開いていても、意識があるわけではないらしい。医師がベッドを回り込み、時次郎の右肩を叩く。そちらは麻痺がないほうだ。

「篠崎(しのざき)さん、娘さんが来てくれましたよ」

 医師の呼びかけを聞きながら、明日美は恐る恐る歩を進める。うっすらと面影があるだけの別の大男を、「はい、あなたのお父さんですよ」と押しつけられているような気分だった。

「篠崎さん」

 何度目かの呼びかけで目が少し開き、濁った眼球が朧気に動く。この人の黒目の縁は、こんなに青みがかっていただろうか。水面が揺らぐように小刻みに揺れ、見たものが像を結んでいるのかどうかも定かではない。

「――お父さん」

 医師が「さぁ」と促すような目を向けてくるものだから、仕方なく呼びかけた。

「分かる? 明日美です」

 それでもまだ、時次郎の眼差しはぼんやりとしたままだ。代わりに布団の上に置かれた右手の指が動く。

「聞こえてはいるようですね」

 医師が言うからにはそうなのだろう。いまわの際でも聴覚は、最後まで残ると聞いたことがある。

 なんだか、ずるい――。

 自力で立っているのがしんどくて、明日美はベッドの柵をぐっと握る。

 時次郎はがさつで体も声も大きくて、明日美から見れば圧倒的な強者だった。だからこそ思う存分に憎み、遠ざけても良心は痛まなかった。

 それなのに、目の前に横たわっているのは、なんと弱々しい存在だろう。この男だけは絶対に許さないと心に砦を築いたのに、その地盤が動揺してぐらついている。こんなに弱った姿を見せられたら、こちらから歩み寄って手を差し伸べてやらなきゃいけないと思わされる。

 だけどこの人を、許したくなんかない。

 死の淵から還り、いつまた沈むかもしれぬ相手を前にして、過去にこだわり続けるのは愚かなことだ。でも時次郎が十年前に放った言葉は、今もはっきりと、鼓膜の内側で響いている。

〈いつまでもメソメソすんな、鬱陶しい。子供なんか、また産みゃあいいだろう〉

 線香と熟れすぎた果物のにおいが、ふわりと鼻先をかすめた気がする。遠い記憶に向かって飛びかけていた意識が、微かな呻き声に引き戻された。

「あうあ――」

 明日美は声の出所を凝視する。時次郎の唇が、わずかに動いている。

「はい、なんですか?」

 医師が身を屈め、時次郎の声に耳を傾ける。ただの呻き声ではなく、言葉を発しようとしているのだ。

「あうあうぃ」

 出血によって脳機能が侵されているせいで、呂律がうまく回らない。明日美も聞き取ろうとしてみたが、まったく意味が掴めなかった。

 それでも時次郎は、なにかを伝えようとしてくる。よっぽど大事なことなのだろう。どうしても聞き取れなくて、眉間の皺ばかりが深くなってゆく。

「お父さん、もういいから」

 何度やっても同じこと。これ以上は時次郎を無駄に疲れさせてしまう。なにより必死に聞き取ろうと、耳を凝らすのが苦痛になってきた。

「なつやすぅい」

 時次郎は最後に、振り絞るようにして声を発した。

 医師が「ん?」と首を傾げる。

「なつやすみ、ですか?」

 自信のなさそうな問いかけに、時次郎が顎先を小さく揺らした。頷いたのだろうか。

 そのまま満足したように、瞼がすっと閉じられる。どうやら眠りに入ったようだ。

 なぜここまでして、この言葉を伝えたかったのだろう。

「夏休み?」と、明日美は小さく呟いた。

 

坂井家の梅さま、庭の猫と対峙す(写真提供:坂井さん)

 

 

 

 

 

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