脳出血で父が倒れた――。離婚時に、折り合いの悪い父・時次郎との同居を選ばず、この10年連絡すら取り合っていなかった42歳の明日美。実家からは勘当されとっくの昔に母に逃げられている父にとって、一人娘である明日美は唯一の身内であり、入院先の看護師から留守電が入っていた。久しぶりに赤羽駅へ降りたち、病院に駆けつける明日美だったが……。

       〈四〉

 

 店舗と二階に続く階段の、境に掛かっている暖簾を掻き分ける。

 すぐ左手が階段で、右手がトイレ。ただしトイレの入り口は、店舗側についている。その右壁際にぴたりとつけて、机と椅子が置かれていた。

「わっ!」

 狭いスペースにそんなものがあるせいで、椅子の背に腰をぶつけそうになった。薄暗がりの中手探りをして、明日美は階段の電灯のスイッチを押した。

「なんでこんなところに」

 机と椅子は小学校の教室で使っていたような、木とパイプが組み合わさったものだった。それが階段の手前の、場所塞ぎな位置にある。そのせいで二階へ行くには、いちいち体を斜(はす)にして通らねばならないようだ。

 明日美は深く息をつき、机に身を委ねるようにして手をついた。

 自棄になって「宮さん」が置いていったチューハイのロング缶を一本飲み干したせいで、少しばかり頭が痛い。時次郎は水のように酒を飲む男だから、顔も知らぬ実の母が酒に弱かったのだろう。しかも節約のためずっと飲まないようにしていたから、やけに酔いが回る。

 おそらくもう、深夜一時を過ぎている。終電を逃してしまったから、仕方なく二階に泊まることにした。まさかこんなところに、障害物があるとは思わなかった。

 正面突き当たりにアルミ製のドアがあり、そこが勝手口になっているようだ。目を凝らしてみると、丸いドアノブのつまみが縦になっている。

 もしかしてこれ、鍵がかかっていないんじゃ――。

 机と椅子を避けて回り込み、ドアノブに手をかける。するとドアは無抵抗に、外側に向かってするりと開いた。

 深夜になっても気温が下がりきっておらず、むわっとした外気が顔周りを包み込む。裏の家もなにかしらの飲食店らしく、黒ずんだ壁がすぐそこに迫っていた。

 なんて、不用心な。

 今までずっと、開けっぱなしになっていたのか。空気の淀んだ店の裏側に出てみると、隣のホルモン屋との間にはほぼ隙間がなく、ラーメン屋との間は明日美が体を傾けてやっと通れる程度である。体格のいい時次郎には、すり抜けることなどできなかっただろう。

 だからって、近ごろは物騒なのに。

 こんな通路とも呼べぬ隙間に、わざわざ入ってくるもの好きはいまい。それでも世の中、なにが起こるか分からない。

 明日美は屋内に戻り、勝手口の鍵をしっかりと閉める。近隣の店舗から出る脂っぽいにおいが淀んでいたせいで、軽い胸焼けを覚えていた。

 酒に酔った勢いで、寝てしまえばいいと思っていたのに。うまく眠れるだろうかと危惧しながら、階段の手前でスニーカーを脱ぐ。

「宮さん」が持っていた借用書によると、時次郎の借金は三百万円。返済に関しては「『まねき猫』が続くかぎり無期限」となっていた。

 自分自身が通うお気に入りの店を守るため、「宮さん」は破格の条件でお金を貸してくれたのだ。つまり約定どおりなら、店を閉める際には借金を完済しなければならならない。

 利子がつかないのは幸いだが、近日中に三百万もの大金を用意するなんて、明日美には逆立ちをしたってできっこない。

 必ず全額を返すから、分割にしてほしいと頼んでも、「宮さん」は「それじゃあ約束が違う」と言って譲らなかった。ただし当面の営業をひかりに任せ、店を続けるなら返済はいくらでも待つという。

「時さんの入院費だって、嵩むでしょう」

 ひかりもまた、同情のこもった眼差しでそう問いかけてきた。

「私はべつに、この店を乗っ取りたいわけじゃないの。そりゃあ自分が働いたぶんはしっかりもらうつもりだけど、店の利益は時さんの治療費や、借金の返済に充てればいいと思うのよ」

 ひかりは元々、「まねき猫」の従業員だったという。料理の才能がない時次郎の代わりに、包丁を握っていたそうだ。どうりで、手慣れているはずだ。