熊楠の遺した標本や記録が、学説の信憑性を高めた

熊楠は知人を通じ、牧野に熊野で採集した植物の鑑定を依頼しており、その鑑定結果が熊楠の標本とともに同館の収蔵庫に保存されている。その中に、開花した竹の一種であるハチクが見つかった。竹は120年周期で一斉に花を咲かせるといわれているが、近年、各地で開花が見られているという。

明治36年(1903年)9月27日付けの地元紙「熊野新報」に包まれた状態で保存されているハチクの花と、鑑定結果を記した牧野富太郎からの手紙。「南方君ノ分」という直筆文字が読み取れる(南方熊楠顕彰館所蔵)

 

「標本が作られたのがちょうど120年前の明治36年で、学説の周期と一致。熊楠の遺した標本や記録が学説の信憑性を高め、今も植物学の進歩につながっています」と土永さんは言う。

熊楠はその後、研究対象の重きを隠花植物に移したが、研究対象でない維管束植物だけで7000点の標本を持っていたという。

熊楠が所有していた、日本初の彩色植物図鑑「本草図譜」(南方熊楠顕彰館所蔵)

二人はお互いにリスペクトしながらも、ライバルとして複雑な感情があったのだろうか。牧野が田辺を訪れたこともあったが、熊楠の住居のすぐ近くまで来ていながらも、直接会うことはなかったそうだ。

熊楠にとって欠かせない道具であった胴乱(右)や籠(左)などの植物採集用具(南方熊楠顕彰館所蔵)

 

南方熊楠はどんな人?

南方熊楠の写真(南方熊楠顕彰館所蔵)
 
 

 

博物学者・生物学者・民俗学者
1867年、和歌山城下で生まれる。
幼い頃から博物学に興味を示し、知人宅で借りた百科事典『和漢三才図会』を書き写し全105巻を完成させる。
やがて上京し、大学予備門(現在の東京大学)に入学するも、考古遺物や生物標本の収集に明け暮れたため落第し、中退。予備門の同窓生にはのちの夏目漱石や正岡子規らがいた。
その後14年間アメリカ、キューバ、イギリスなどへ遊学。10数か国語を理解したと言われ、「知の巨人」と称された。
帰国後は和歌山県田辺市に定住し、柳田國男らと交流しながら生涯植物の採集・研究を続けた。1929年には昭和天皇を田辺市の神島にお迎えし、進講を行っている。
1941年没 

※本稿は和歌山県総合情報誌『和-nagomi-』の一部を再編集したものです。

南方熊楠顕彰館

南方熊楠顕彰館

約25,000点に及ぶ貴重な資料を収蔵し、熊楠の生涯や業績を紹介する施設。隣接する南方熊楠邸では当時の様子が再現されており、熊楠の暮らしぶりを伺うことができる。夏期は特別企画展「こどものための図鑑2-クマグスさんとふしぎな動物たち」を9月18日まで開催中
住所/田辺市中屋敷町36
電話/0739-26-9909
https://www.minakata.org/

南方熊楠記念館

南方熊楠記念館

熊楠の業績を700点以上の遺品や遺稿で紹介。実際に顕微鏡で粘菌を見ることもできる。360度見渡せる屋上展望デッキもあり。夏期は、特別展「南方熊楠と牧野富太郎-ふたりの事ども-」を10月9日まで開催中
住所/和歌山県西牟婁郡白浜町3601-1
電話/0739-42-2872
http://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/