絶望は決して破滅的なものではない

死を前にした時だけ人間は、何が大切で何がそうでないかがわかる。

マルクス・アウレリウスは、健康な精神は、生起するすべてのものを喜んで受け入れるはずであり、死もまたその対象の一つにほかならない、ということを『自省録』の中で述べているが、彼は同時に(私流に言えば)現世に深く絶望することの必要性にも触れているのである。

30代半ばの曽野綾子さん。(1966年9月撮影。写真:本社写真部)

その絶望は決して破滅的なものではない。それは心の解放と、むしろ新たな希望とにつながるものなのである。

私は37歳の時に『戒老録』を書いた。その頃、女性の平均寿命は74歳だったので、私は折り返し点を過ぎた今から、自分に向かって老いを戒めるものを書いておくべきだ、と思ったのである。

それを可能にしてくれたのは、私が自分の母、夫の両親と同居していたことであった。老いや死に近付くことを考える材料に困らなかったのである。3人とも、善良で知的な人々だった。

おかしな言葉かもしれないが、3人は誠実に老い、2人の母たちは一生懸命に死んでいった。実母は亡くなった時、角膜を提供した。私に老いと死の姿を過不足なく身近で見せてくれたということは、3人の親たちの、私への大きな贈り物だと今でも思う。