曽野さん「死を前にした時だけ人間は、何が大切で何がそうでないかがわかる」(写真提供:Photo AC)
死はだれにでも等しく訪れる。生きていれば、大切な人の死に立ち会うこともあるでしょう。92歳になる作家の曽野綾子さんは、これまで数多くの国や地域を巡る中で「生きること、死ぬこと」の本当の意味を実感したといいます。富める人、貧しい人、キリスト教徒、イスラム教徒……それらの出会いで知らされた「勝ち負けのない人生」とは。曽野さん「死を前にした時だけ人間は、何が大切で何がそうでないかがわかる」と言っていて――。

義務教育に死学を

もう、かなり昔のことになるが、1984年頃から私は、臨時教育審議会の委員だった。その時、私がたった一つかなり本気で提案したことは、義務教育の中に、死を教える時間を取り入れることだった。

義務教育のどこで、何歳の時に教えたらいいかという適時性の問題はまた専門家の意見を持たねばならないが、いずれにせよ死学の欠落した教育というのは無責任だと思ったのである。

もちろん臨教審らしい制度の改革というものを、むだだと言うのではないが、私の中で、人間の作る制度というものは、永遠に未完成なものだという感じが抜けなかった。

一つの制度を直すと、次の不備が見つかる。私は、人間の生活は、そのような不備と常に共棲(きょうせい)し、むしろそのような不備を、自分を作る教育の要素にすることを、少なくとも自分の息子には望んでいた節がある。

一方、私たちは、火災訓練とか、船の遭難訓練とか、さまざまな事件に対処するための訓練を受ける。しかし多くの人がビル火災にも会わず、船の遭難にも会わなくて済むのが実情である。

しかしたった一つまちがいなく会うものが死なのである。それなのに、今までの教育が、そのことをまともに取り上げなかったことは、私から見ると、怠慢というか異常というか、理解できないことであった。

しかも死は、誕生と共に、この上なく重大なできごとである。それがうまくいけば、その人の人生は成功したと言えるし、それがまずくいけば、恐らくその人も不幸だったろうし、周囲の人々も、その人を思い出す度に暗澹(あんたん)とした思いになる。