家康は石川家に思い入れがなかった?

その後、吉輝は松本の大名として静かに生きて、文禄2年(1593年)、朝鮮出兵のための肥前の陣中で死去しました。享年60。

徳川家とその一党が「数正め!許さん!」と血圧を上げていたならば、関ヶ原のあとですぐに潰しにかかったでしょう。でも、家康はそうはしなかった。

当主は吉輝のあとは息子の康長が継いでいましたが、松本藩8万石(弟2人に分与して少し減った)はそのまま。家康は良いにつけ、悪いにつけ、石川家に対してそんなに思い入れがなかったようです。

それでも結局、石川家は改易されます。大久保長安事件に連座したのです。