石川家のその後

大久保長安というと、天下の総代官、などといわれる能吏でした。民政をつかさどるのみならず、石見銀山や佐渡金山などを管理して莫大な富を幕府にもたらしました。

ところが慶長18年4月、彼が没すると、幕府は長安と大久保一族の不正蓄財疑惑を問題視し、彼の男子7人全員(なんと!)に切腹を命じたのです。

康長の娘は長安の長男、藤十郎に嫁いでいました。そのため、同年10月、康長は弟の康勝、康次とともに改易されてしまいました。もらい事故のようなもので、ここでも石川家は、良きにつけ悪しきにつけ、目立った動きをしていません。

おれは自分の能力に見合った待遇を得ていない。そう思ったら、主人を替える。それが中世の主従関係でした。そして織豊政権期はとくにその動きが顕著でした。

大名はみな、色々な分野に才能を示す武士を召し抱えたい、と思っていたのです。

だから優秀な武士は転職を厭わない。石川数正も、その一人だったに違いありません。

あらためて考えても、それ以上でもそれ以下でもないでしょう。


「将軍」の日本史』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)

幕府のトップとして武士を率いる「将軍」。源頼朝や徳川家康のように権威・権力を兼ね備え、強力なリーダーシップを発揮した大物だけではない。この国には、くじ引きで選ばれた将軍、子どもが50人いた「オットセイ将軍」、何もしなかったひ弱な将軍もいたのだ。そもそも将軍は誰が決めるのか、何をするのか。おなじみ本郷教授が、時代ごとに区分けされがちなアカデミズムの壁を乗り越えて日本の権力構造の謎に挑む、オドロキの将軍論。