自由劇場時代の笹野さん、28歳頃(写真提供◎笹野さん)

でも、その後『夏祭』の義平次役が大当たりを取り、12年の平成中村座では六代目勘九郎襲名口上に居並ぶまでになる。

――ある晩、仕事先のホテルで寝てたら、突然勘三郎さんから電話があって。「近くにみんな集まってて、大事な話があるから来てよ」って。で、ホテルの展望レストランみたいなところに行くと、串田さんやら松竹の人やらが大勢いて、「次の『夏祭』の義平次、やってくんない?」って話でした。

「何もしなくてもそのまんま義平次。ぴったりだよ、ねぇねぇねぇ」「それはいつからですか?」「来年11月」「僕、予定が埋まってます」「断れない?」って(笑)。それで夜中に当時のマネージャーに電話。「笹野さん、それやりたいのね?」「できればね。前の汚名返上もしたいし」「わかりました」。

そのマネージャーが侠気のある人で、決まっていた仕事を土下座までして断ってくれたんです。「ついては勘三郎さん、もうあなたに恥はかかせられないし、歌舞伎の台詞の勉強を」「わかった。竹本の清太夫(きよたゆう)さんに頼むよ」って。もう即断ですよ。

それからは『法界坊』の山崎屋勘十郎とか『三人吉三』の土左衛門伝吉とか、ずいぶん勤めさせていただいて。しまいにはアングラ出身の役者が「口上」にまで。衣装の裃(かみしも)も「笹野だから、この薄い緑がいい」と新調してくれて、「七之助の時も出てもらうからずっと持っといて」なんてことを言ってくれたのに……。はぁ、悲しい。