(写真撮影:編集部)

 

 

 味噌仕立てのモツ煮込みには、大根と蒟蒻(こんにゃく)、それから牛蒡(ごぼう)が入っていた。

 どんぶりと呼ぶには小振りな椀に飯をよそい、その上にお玉で掬ったモツ煮をたっぷりと。表面にわずかな窪みを作り、ひかりが冷蔵庫から卵を取ってきた。

 調理台にコンコンと打ちつけて、窪みの中に割り入れる。それはぷるんとした温泉卵だった。

 仕上げに小口切りの青葱をぱらりと散らし、「はいどうぞ」と差し出してくる。すぐ横に、一味唐辛子の瓶も添えられた。

 豚のモツから染み出た脂がきらきらと、照明の光を反射している。B級グルメ以外のなにものでもないが、食欲を刺激する見た目である。

「いただきます」

 ひかりに向かって手を合わせ、箸立ての割り箸を抜く。「つゆだくで」と頼んだから、白米が汁を吸ってふやけかけている。箸では掬いづらそうで、お椀に直接口をつけて啜り込む。

 そのとたん、モツのほどよい臭みと旨みが口の中に広がった。大根にも味がよく染みて、ほんのり土の香りのする牛蒡が風味を添えている。雑味をあえて殺しきらない、絶妙な塩梅だった。

「美味しい。案外さっぱりしてますね」

「まだ開店前だからね。夜遅い時間には煮詰まってとろとろになるから、それ目当てに来る常連もいるわ」

 とろとろのモツ煮込みも、美味しそうだ。時間帯によって提供するものの質が変わるなんて一流店なら失格だが、そういった変化を楽しむのもまた、大衆酒場ならではの妙味だろう。

 そういえば別れた夫は、赤提灯が好きだった。高校を卒業してすぐ家電量販店に就職した明日美は、二十歳を過ぎたとき、初めての上司だった彼にお酒の飲みかたを教わった。

「篠崎さんは、あんまり強くないみたいだね。チェイサーとして、常に水を手元に置いておくといいよ。駄目だと思ったら、無理はしないように」

 アルハラという言葉など、まだない時代だった。上司の中には「飲まないと強くなれんぞ」と飲酒を強要するタイプもいたが、あの人はいつも優しく、さり気なく庇ってくれた。そういうところに、惹かれたはずだ――。

 思いがけず、感傷的な気分になってしまった。それもこれもこのモツ煮込みが、元夫の好みそうな味つけだからだ。

 明日美は小さく首を振り、懐かしい面影を頭から追い出した。あの人はもう、別の家庭を持っている。自分とも時次郎とも、もはや関わりのない人間だった。

 温泉卵の真ん中に、ぷつりと箸を突き立てる。一味唐辛子をモツに振りかけて、とろりとした黄身と共に啜り込んだ。卵のまろやかさが加わって、お代わりをしたくなるほど美味しかった。

「ごちそうさまでした」

 食への未練を断ち切って、神妙に手を合わせる。

「ああ、そのへんに置いといて」

 空になったお椀を手に厨房に入ろうとすると、ひかりが手元に視線を落としたまま言った。

 キャベツの千切りを手早く終えて、今は鶏皮の串打ちをしている。ただでさえ忙しそうなのに、余計な手間を増やしたくない。

「洗います」

 ステンレス製の広い流しには、使用済みの調理器具も突っ込まれていた。それらもついでに、洗うことにする。

「そう、ありがと」

 店内の壁に貼られているメニューの短冊は、たいていが百円台。一番高い馬刺しでも三百円と、せんべろの名に恥じぬリーズナブルな価格設定だ。しかも鮪などの刺身に串、揚げ物、きんぴら牛蒡やおから煮といった惣菜系まで、多岐にわたっている。

「大変じゃ、ないですか?」

 洗い物の水音でかき消されるかなと思いつつ、尋ねてみる。

 辛うじて声が届いたらしく、ひかりは串打ちを続けながら答えた。

「まぁね。開店時間は本来十一時なんだけど、時さんが倒れてからは一時間遅らせてる」

 首を捻って厨房の壁掛け時計を見上げると、そろそろ十一時。ひかり曰くメニューは少し減らしたと言うが、それでも一人で店を切り盛りするのは骨が折れる。営業中は「タクちゃん」や「宮さん」といった常連が注文を捌いたり洗い物をしたりと手伝ってくれるらしいが、ひかりだってもう若くはないのだ。

「そうまでして、どうしてこの店を残したいんですか」

 昨夜からずっと、疑問に思っていたことを口にする。時次郎といくら親しかったとしても、「まねき猫」の一従業員であるひかりがそこまでの責任を負うことはないし、「宮さん」だって頑なすぎる。借用書があるにしても、経営者である時次郎がその能力を失ったのだから、少しくらい返済の条件を緩めてくれたっていいはずだ。

 お気に入りの店がなくなるのが嫌なのかもしれないが、「まねき猫」のような立ち飲み居酒屋ならこの赤羽には珍しくもない。ただ単に河岸を変えればいいだけなのに、なにをそんなにこだわっているのだろう。

「ああ、それはね――」