〈五〉
高台にある病院から、またもや大汗をかいて駅前に戻る。
予想どおりの、猛暑日である。さっきまで冷えて震えていた体が炎熱に炙られて、自律神経がどうにかなってしまいそうだ。明日美はキャップ帽の鍔(つば)を限界まで引き下げて、「まねき猫」へと向かった。
心も体も、疲弊している。今日のところはもう笹塚(ささづか)の自室に帰り、シャワーを浴びて体を休めるべきだろう。それなのに気持ちが妙に急き立てられて、じっとしていられそうにない。
明日からまた、仕事がある。自由になる時間が少ないのだから、できることから進めておかないと。せめて「まねき猫」二階の、居住部分の片づけだけでも。
戻ってみると、十時半を過ぎていた。店のシャッターが半分開いていて、カウンターの向こうの厨房では、ひかりが忙しなく仕込みをしていた。
「あら、お帰りなさい」
明日美に気づいて、そんな言葉で迎えてくれた。
ここをホームとは思っていないから、「お帰りなさい」と言われても違和感がある。ではどこがホームなのかと問われても、うまく答えられない気がした。
「昨夜はここに泊まったの?」
ちらりとこちらを見ただけで、ひかりはキャベツの千切りを続ける。服装が昨日と変わっていないことに、目聡く気がついたようだ。
「いいえ、漫画喫茶に。それから病院に呼ばれて」
リズミカルな包丁の音が心地よい。コンロにかけられた大鍋がぐつぐつ煮えており、旨そうなにおいを振りまいている。
「父が、一般病棟に移ったので」
ひかりの動作が、ぴたりと止まる。俎(まないた)に包丁を置いてから、顔を上げた。
「どんな具合?」
「意識はまだ朦朧としていて、言葉も不明瞭です」
「そう」
鼻からふうと息を吐き出して、ひかりが目を伏せる。念入りに化粧をしているものの、そうすると年相応の疲れが目についた。このところずっと、一人で店を切り盛りしているのだ。彼女だって、疲労が溜まっているのだろう。
「それは、ショックだったわね」
ひかりの声に、労るような響きが加わる。視界がぐらりと揺れた気がして、明日美はカウンターに手をついた。
ショックだったのだろうか、自分は。記憶の中の時次郎はいつだって、うるさくて人騒がせな男だった。それがあんなにも濁った目をして、自力では身動(みじろ)ぎすらできぬ肉の塊になってしまった。
冷たい汗が、顎を伝う。時次郎の身を案じて泣くこともできないくせに、汗だけはやたらと出る。
「まかない、食べる?」
唐突な質問だった。明日美は思わず「へっ?」と呟く。
起きてから、自販機のコーヒー以外口にしていない。でも食欲があるのかどうか、よく分からなかった。
「モツ煮込み丼なら、すぐ出せるけど」
「もつにこみどん」
呆けたように、料理名を繰り返す。大鍋の中でぐつぐつと音を立てているのが、モツ煮込みらしい。そう言われて、漂っていた味噌の甘い香りが際立った。
胃腸が急に覚醒し、ぎゅるぎゅると動きだす。空腹を自覚して、Tシャツ越しに腹を撫でた。
「大、中、小、どれがいい?」
食べることを前提に、サイズを聞かれる。
厚かましいとは思いつつ、明日美は「中で」と答えていた。