脳出血で父が倒れた――。離婚時に、折り合いの悪い父・時次郎との同居を選ばず、この10年連絡すら取り合っていなかった42歳の明日美。実家からは勘当されとっくの昔に母に逃げられている父にとって、一人娘である明日美は唯一の身内であり、入院先の看護師から留守電が入っていた。久しぶりに赤羽駅へ降りたち、病院に駆けつける明日美だったが……。

       〈五〉

 

 高台にある病院から、またもや大汗をかいて駅前に戻る。

 予想どおりの、猛暑日である。さっきまで冷えて震えていた体が炎熱に炙られて、自律神経がどうにかなってしまいそうだ。明日美はキャップ帽の鍔(つば)を限界まで引き下げて、「まねき猫」へと向かった。

 心も体も、疲弊している。今日のところはもう笹塚(ささづか)の自室に帰り、シャワーを浴びて体を休めるべきだろう。それなのに気持ちが妙に急き立てられて、じっとしていられそうにない。

 明日からまた、仕事がある。自由になる時間が少ないのだから、できることから進めておかないと。せめて「まねき猫」二階の、居住部分の片づけだけでも。

 戻ってみると、十時半を過ぎていた。店のシャッターが半分開いていて、カウンターの向こうの厨房では、ひかりが忙しなく仕込みをしていた。

「あら、お帰りなさい」

 明日美に気づいて、そんな言葉で迎えてくれた。

 ここをホームとは思っていないから、「お帰りなさい」と言われても違和感がある。ではどこがホームなのかと問われても、うまく答えられない気がした。

「昨夜はここに泊まったの?」

 ちらりとこちらを見ただけで、ひかりはキャベツの千切りを続ける。服装が昨日と変わっていないことに、目聡く気がついたようだ。

「いいえ、漫画喫茶に。それから病院に呼ばれて」

 リズミカルな包丁の音が心地よい。コンロにかけられた大鍋がぐつぐつ煮えており、旨そうなにおいを振りまいている。

「父が、一般病棟に移ったので」

 ひかりの動作が、ぴたりと止まる。俎(まないた)に包丁を置いてから、顔を上げた。

「どんな具合?」

「意識はまだ朦朧としていて、言葉も不明瞭です」

「そう」

 鼻からふうと息を吐き出して、ひかりが目を伏せる。念入りに化粧をしているものの、そうすると年相応の疲れが目についた。このところずっと、一人で店を切り盛りしているのだ。彼女だって、疲労が溜まっているのだろう。

「それは、ショックだったわね」

 ひかりの声に、労るような響きが加わる。視界がぐらりと揺れた気がして、明日美はカウンターに手をついた。

 ショックだったのだろうか、自分は。記憶の中の時次郎はいつだって、うるさくて人騒がせな男だった。それがあんなにも濁った目をして、自力では身動(みじろ)ぎすらできぬ肉の塊になってしまった。

 冷たい汗が、顎を伝う。時次郎の身を案じて泣くこともできないくせに、汗だけはやたらと出る。

「まかない、食べる?」

 唐突な質問だった。明日美は思わず「へっ?」と呟く。

 起きてから、自販機のコーヒー以外口にしていない。でも食欲があるのかどうか、よく分からなかった。

「モツ煮込み丼なら、すぐ出せるけど」

「もつにこみどん」

 呆けたように、料理名を繰り返す。大鍋の中でぐつぐつと音を立てているのが、モツ煮込みらしい。そう言われて、漂っていた味噌の甘い香りが際立った。

 胃腸が急に覚醒し、ぎゅるぎゅると動きだす。空腹を自覚して、Tシャツ越しに腹を撫でた。

「大、中、小、どれがいい?」

 食べることを前提に、サイズを聞かれる。 

 厚かましいとは思いつつ、明日美は「中で」と答えていた。