「ごめん、遅くなった!」
その理由を聞く前に、威勢のいい男の声が割り込んできた。「タクちゃん」や「宮さん」とは違い、張りがあって若々しい。驚いて振り返ると、半開きの入り口から駆け込んできたらしい青年が、カウンターに手をついて乱れた息を整えていた。
健康的に日焼けした、二十代と思しき若者である。なにかスポーツでもしているのか、白いTシャツから突き出た腕は太く、胸板も厚い。
「仕事、辞めてきた。バリバリ働くから、よろしく」
「えっ、マジで? 空いてる時間に手伝うだけでいいって言ったじゃん」
親しい間柄なのか、ひかりの口調が一気に砕ける。青年は「任せろ」とばかりに己の胸を叩いた。
「その程度じゃ、間に合わないだろ。他の奴らにも声かけてんの?」
「まぁ、ぼちぼちね」
「キョウヤは学生だから夜入れんだろ。アンリもどうせパチ屋だ、辞めさせてこっちやらせようぜ」
「人の都合も聞かず、勝手に決めんじゃないよ」
ひかりは昨夜、「助っ人を呼んだほうがいいかもね」と言っていた。そしてこの青年が、手伝いを打診されたのだろう。思いのほかやる気になって、これまでの仕事を辞めてしまったみたいだが――。
洗い物の手を止めて二人のやり取りを眺めていたら、視線に気づいた青年と目が合った。「おっ!」と言いたげに、手入れされた眉が持ち上がる。
「新しいパートさんいんじゃん。だったらべつに、アンリを辞めさせなくても平気かな」
「えっ!」と、みっともないくらい肩が跳ね上がった。今どきの若者にしては押しが強くて、どぎまぎする。
「違うから。この人は、篠崎明日美さん」
「って、誰?」
「苗字で察しなよ。時さんの娘さん」
「ああ」
明日美の正体を知った青年が、大きく顔を顰める。この反応は、嫌悪? さっきまで笑みを含んでいた目元も、険しいものになっている。だけど初対面の相手から、悪意を向けられるいわれはない。時次郎に、なにか恨みでもあるのだろうか。
「さっきまで、時さんの病院に行ってたらしいの。その足で寄ってくれたのよ」
「時さん、どんな感じ?」
一転して心細げな表情になり、青年は明日美ではなくひかりに尋ねる。ひかりは軽く肩をすくめた。
「昨日メールで送ったとおり。一般病棟には移れたみたいだよ」
「そっか。心配だな」
心の底からそう思っているのが伝わる声音だった。実の娘より、この青年のほうがよっぽど時次郎の身を案じている。どうやら先ほどの悪意は、時次郎のとばっちりで飛んできたものではないようだ。
「ごめんなさいね、明日美さん。こいつは萩尾求(はぎおもとむ)。昔は大人しくて可愛い子だったんだけど、時さんに憧れてこうなっちゃったの」
憧れる? と、明日美は内心首を傾げる。時次郎のどこに、憧れる要素があるというのだろう。
「おい、こら。『こうなっちゃった』ってなんだよ」
「粗暴でがさつ?」
「なに言ってんだよ。男気あふれるところが似てんだろ」
「男気あふれる奴は、今までの仕事をほっぽり出したりしないんじゃない?」
「だからそれは、ちゃんと後任見つけて引き継ぎも済ましてきたんだって。俺そんないい加減じゃねぇし」
「そう。だったらまぁいいけど」
ひかりと求は、親子ほども歳が離れていそうだ。年齢差があっても、仲良くじゃれている。なんだか馬鹿らしくなってきて、明日美は洗い物の続きに取りかかった。
求が時次郎に憧れているのなら、先ほどの敵意も頷ける。明日美のことを、ひどい娘だと憎んでいるのだろう。事実この十年、他人面をして生きてきたのだから、今さらどう思われたって構わない。
だけど時次郎の男気なんて、上辺だけだ。外面がよくて威勢のいいことばかり言うくせに、実の娘には一度として救いの手を差し伸べたことがない。そんな男に騙される求とは、とても気が合いそうになかった。
手早く洗い物を終え、流しの下の扉にかかっていたタオルで手を拭う。
「じゃあ、私はこれで――」
そっと会釈をして、厨房の外に出ようとした。だが逆に入ってこようとしていた求に立ち塞がられる。
「は、まさか帰んの?」
「えっ、そうじゃなくて」
二階の片づけを――。と続けようとしたがみなまで聞かず、求が手にしていたエプロンを押しつけてきた。
「信じらんねぇ。手が足りないの、見て分かんだろ。手伝ってけよ」
声の大きいところが、時次郎にそっくりだ。心臓が、ぎゅっと掴まれたように痛くなる。
「ほら、早く。ぐずぐずしてる暇なんてねぇから」
言い返す気力も失せ、明日美は急かされるままにエプロンを身に着ける。二階の片づけよりも、店の手伝いのほうが必要とされているのはたしかだった。
「いいの? ありがとう」
ひかりがホッとしたような顔をして、「じゃあこの続きお願い」と、鶏皮と串を押しつけてきた。