なぜ江戸だったのか

この家康の関東転封は、豊臣政権による「関東・奥両国惣無事」政策の一環として行なわれたものであった。そのことは、一〇万石を超える徳川氏の最上級家臣について、その知行高や入封地についてまで、秀吉の指示があったことでも知られる。

『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)

すなわち、上野箕輪(群馬県高崎市)一二万石の井伊直政、同館林(館林市)一〇万石の榊原康政、上総万喜(千葉県いすみ市。のち大多喜〔大多喜町〕)一〇万石の本多忠勝がそうであった。

関東へ転封した家康は、それまでの北条氏の居城小田原城ではなく、北条氏の一支城であった江戸城に入った。

なぜ江戸だったのかについては、近世以来さまざまな説が唱えられてきた。

かつて江戸は東国の一寒村であり、徳川氏の入部によって発展したといわれたこともあったが、最近では当時の江戸は関東では政治的にも経済的にも重要な地となっていたことが明らかにされている。それとともに、豊臣政権の関東から奥羽まで含めた東国支配政策とのかかわりから、江戸入部もとらえられるようになってきている。

たとえば、家康の江戸入部は、秀吉の会津出陣にともなう小田原~会津間の街道整備と同時並行して行なわれており、その場合、江戸は南関東から北関東・奥羽方面へ向かう「主要道」=「東とおり」と「西とおり」の起点となっていることが注目された。

上方から「東海道」を経て、関東各地のみならず、奥羽へと向かう交通の一大中継地となった江戸の重要性が上昇し、そのような江戸に秀吉は家康を入部させたというのである(竹井英文「徳川家康江戸入部の歴史的背景」)。