秀吉による天下統一
八月九日には、秀吉は会津黒川(福島県会津若松市)に到着し、奥羽仕置が行なわれた。
そこでは新たに白川・田村ついで石川の諸氏が所領没収となった。他方で、葛西・大崎氏の旧領は木村吉清に与えられた。伊達政宗は、会津領は没収されたが本領は安堵されて米沢城に入り、伊達氏の会津などの旧領は、代わって会津黒川城に入った蒲生氏郷に宛行(あてが)われた。
その他、諸大名の妻子の上洛(人質の差し出し)、検地・刀狩・城破(しろわり。城郭の破却のこと)などの諸政策の執行を命じて、秀吉が京都に凱旋したのは九月一日のことであった。
こうして、秀吉による天下統一がなったのであるが、実は、事はそう簡単には終わらなかった。豊臣政権による奥羽仕置のためにやってきた大軍が去ると、この天正十八年(一五九〇)の末から翌十九年にかけて、奥羽各地でこの仕置に反発する一揆が起こったのである。
主なものとして、大崎・葛西一揆、和賀・稗貫一揆、九戸一揆などがあった。家康もその平定のため出馬することになったが、九月四日に九戸政実が降伏することで、やっと決着がついたのである。
それゆえ、秀吉による天下統一は、これら奥羽での一揆を平定することによって、最終的に成し遂げられたといえよう。
※本稿は、『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書)の一部を再編集したものです。
『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)
弱小大名は戦国乱世をどう生き抜いたか。桶狭間、三方原、関ヶ原などの諸合戦、本能寺の変ほか10の選択を軸に波瀾の生涯をたどる。