知将として知られる真田昌幸。どのように徳川軍を撃退したのか?『肖像集 4』真田昌幸・小川破笠,写,〔栗原信充画/江戸後期〕. 国立国会図書館デジタルコレクション  (参照 2023-08-21)

松本潤さん演じる徳川家康が天下統一を成し遂げるまでの道のりを、古沢良太さんの脚本で巧みに描くNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。第33回では、小牧長久手で秀吉(ムロツヨシさん)に大勝した家康だったが、秀吉は、織田信雄(浜野謙太さん)を抱き込んで和議を迫り、人質を求めてきた。その上、秀吉が関白に叙せられたという知らせが浜松に届き――といった話が展開します。

一方、静岡大学名誉教授の本多隆成さんが、徳川家康の運命を左右した「決断」に迫るのが本連載。第7回は「真田昌幸はどのように徳川軍を撃退したのか」についてです。

養子に出されていた真田昌幸

第一次上田合戦であるが、ここで家康に敵対した主役は真田昌幸であった。

昌幸は真田幸綱の三男で、武田氏に人質として差し出されたのであるが、信玄の信任を得て武田親類衆の名門武藤家の養子となり、武藤喜兵衛尉(むとうきひょうえのじょう)昌幸と名乗っていた。

ところが、天正三年(一五七五)の長篠の合戦で、幸綱の嫡男信綱・次男昌輝がともに討死してしまったため、真田家に復帰して家督を継ぐことになった。

武田氏配下の真田氏は、信濃小県(ちいさがた)郡の砥石城(長野県上田市)を本拠にしながら西上野に進出し、吾妻郡の岩櫃城(群馬県吾妻町)を攻略すると信綱はこれを居城とした。家督相続した昌幸はこれを受け継ぎ、さらに天正八年(一五八〇)には利根郡の沼田城(沼田市)も攻略した。

ところが、武田氏が滅亡すると信長による知行割が行なわれ、上野一国と信濃の小県・佐久二郡は滝川一益に与えられた。このため昌幸は、沼田・岩櫃の両城を一益に引き渡さざるをえなくなり、信濃小県の砥石城に戻ったとみられる。

ところがさらにまた、天正十年(一五八二)に本能寺の変が起こると信長の知行割は崩壊し、滝川一益は伊勢へと逃げ帰った。

昌幸は当初上杉景勝を頼ろうとしたようだが、北条氏直が率いる大軍が上野から信濃へと侵攻してきたため、北条氏に出仕することになった。その後、北条軍は甲斐へと向かい、家康と対峙するようになった。