家康の勧告に従わず、北条の攻めをしのぎ切る

昌幸はその間に沼田・岩櫃の両城を回復するとともに、天正十年九月末には依田信蕃や実弟加津野昌春の働きかけもあって家康に降った。

『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)

ところが、十月末に徳川・北条間で和睦が成立すると、上野国は北条方に引き渡すこととされた。昌幸にとってはまさに青天の霹靂ともいうべき事態となったが、昌幸は家康の勧告にもかかわらず、沼田・岩櫃は自らの実力で獲得した所領であるとして、これに応ずることはなかった。

この和睦にともなう領土協定は「手柄次第」ということであったから、昌幸が引き渡しに応じない限り、北条方は実力でこれを奪い取らなければならず、この後たびたび沼田城の攻略を図ったが、昌幸は沼田城に重臣矢沢頼綱を置き、これらをしのぎ切ったのである。

天正十一年(一五八三)に入ると、昌幸は小県郡の制圧を進めるとともに、三月になると北信濃を押さえている上杉方の最前線である虚空蔵山城(長野県上田市と坂城町との境)を攻めた。

四月には、昌幸は援軍として小県郡に入った徳川軍の支援を受けながら、尼ヶ淵の段丘上に築城を開始した。いわゆる上田城(伊勢崎城や尼ヶ淵城ともいわれた。上田市)であるが、家康は上杉方に対する最前線の城としてこの築城を積極的に支援した。