ついに徳川勢は撤退へ

『三河物語』によれば、徳川勢は上田城に押し寄せ、二の丸まで乱入し、城に火を懸けようとしたところ、芝田康忠が城に攻め込んだ味方まで出ることができなくなるといい、 沙汰止みになった。そのため、城から打って出た真田勢のために、混乱した徳川勢は敗北してしまった。

さらに、撤退する徳川勢に対して、砥石城から出撃した信幸の軍勢が急襲した。徳川勢は千曲川の支流神川まで追い詰められ、川を渡ろうとしたところ急な増水で多数が押し流されたという(神川合戦)。

信幸がいう国分寺での戦いとはこの合戦を指すとみられるが、1300余りというのは誇大としても、『三河物語』でいう300よりは多く、4、500程度は討ち取られたとみられ、いずれにしても徳川方の大敗であった。

その後、閏八月下旬にかけて丸子城(上田市)での攻防戦もあったが、これも徳川勢は攻略することができなかった。

九月には支援に来た上杉方の助力によって、上田城の増改築工事が行なわれている。またこの間に、昌幸は初めて秀吉に書状を送ったようで、秀吉からは十月十七日付で返信が届いた。

そこでは、事情はよくわかったとして昌幸の進退を保証するとともに、昌幸よりも早く秀吉に通じていた小笠原貞慶ともよく相談し、落度がないようにと命じている。

こうして、上田城攻めは膠着状態となり、徳川方では新たに5000の兵を率いた井伊直政が、増援部隊としてやってきた。

ところが十一月に入ると徳川勢が撤退を始めたため、十一月十七日付で昌幸は上杉氏の重臣直江兼続宛に書状を送り、徳川方でどのような相談があってのことか、甲州辺りに目付を遣わし、様子がわかれば注進するといっている。

※本稿は、『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書)の一部を再編集したものです。


徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)

弱小大名は戦国乱世をどう生き抜いたか。桶狭間、三方原、関ヶ原などの諸合戦、本能寺の変ほか10の選択を軸に波瀾の生涯をたどる。