家康を見限り、のちの信繁を上杉へ
この頃までは家康と昌幸との関係は比較的良好であり、『当代記』によれば、昌幸はこの年四月に松本城(深志城より改称。松本市)の小笠原貞慶、金子城(諏訪市)の諏訪頼忠、高遠城(伊那市)の保科正直などの信濃国衆らとともに、甲府に来ていた家康のもとへ出仕している。昌幸の場合は、築城の御礼をも兼ねたものとみられる。
しかしながら、八月に氏直と督姫との婚姻が成立し、徳川・北条間に攻守同盟が結ばれると、家康・昌幸の関係は次第に微妙なものとなっていった。氏直が家康に対してあらためて沼田・岩櫃両城の引き渡しを要請し、家康もこれに対応せざるをえなくなったからである。
翌天正十二年(一五八四)は小牧・長久手の合戦となったが、これが和睦という形で収束して天正十三年になると、いよいよ家康から昌幸に対して沼田・岩櫃両城の引き渡し命令が出たようである。
これに反発した昌幸はついに家康を見限り、あらためてこれまで敵対していた上杉景勝を頼ることになった。そのために、昌幸は次男の弁丸(のち信繁。幸村として知られている)を人質として上杉方に送った。
六月二十一日付矢沢頼幸宛真田昌幸朱印状によれば、弁丸に供奉(ぐぶ)した頼幸宛に乗馬衆五名・足軽衆一二名を同心衆として付けるといっているので、弁丸はこれらの衆とともに、六月には越後に向かったものとみられる(丸島和洋『真田四代と信繁』)。
当初は疑念を抱きながらも、これを受け入れた景勝は七月十五日付で昌幸に対して起請文を送り、九ヵ条にわたり種々の保証を行なった。
沼田・吾妻・小県三郡や埴科郡内坂木庄の知行を安堵することをはじめとして、屋代秀正の旧領更級・埴科二郡やその他の所領を新たに宛行(あてが)うとされた。とりわけ、敵方(徳川氏や北条氏など)からの軍事行動があった場合には、小県はもとより、沼田・吾妻方面へも後詰を行なうとされたことは、昌幸にとって心強かったであろう。