7000の徳川軍を2000足らずで迎え撃つ

こうして、昌幸が上杉方に降って旗幟を鮮明にすることになると、徳川方との軋轢は強まらざるをえなかった。

『肖像集 4』真田昌幸・小川破笠,写,〔栗原信充画/江戸後期〕. 国立国会図書館デジタルコレクション  (参照 2023-08-21)

八月になると家康は真田攻めを決意し、鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉らに、7000ともいわれる軍勢を付けて小県郡に向かわせた。また、八月二十日付で小笠原信嶺など五名の伊那衆に対して、鳥居らと相談し、敵が出てきたら根切り(根絶やし)にすべく、一刻も早い出陣を催促した。

これを迎え撃った真田勢は、2000に満たない軍勢だったという。

昌幸はさっそく上杉方に援軍を要請したが、ちょうど北信濃の国衆の多くは春日山城(新潟県上越市)の方へ動員されていた。

海津城(のちの松代城。長野県長野市)の須田満親から注進を受けた景勝は、八月二十六日付で北信濃の井上源四郎ら一一名に宛てて、海津城への参陣を求めている。上杉方の援軍は、八月末には曲尾(上田市)方面に入った。

第一次上田合戦は閏八月二日に始まり、同月十三日付で昌幸の嫡男信幸(のち信之と改名)が恩田氏など沼田衆に宛てた書状によれば、「遠州より軍勢を出してきたので、去る二日に国分寺(上田市)で一戦を遂げ、1300余りを討ち捕らえた」といっている。