「奥両国惣無事」政策実現へ

北条氏を滅亡させ、「関東惣無事」を達成した秀吉は、引き続き「奥両国惣無事」政策の実現をめざし、七月十七日に小田原から奥羽に向かった。

すでに奥羽の伊達政宗・最上義光・南部信直らは小田原で出仕していたのであるが、いわゆる奥羽仕置の執行のためであった(小林清治『奥羽仕置と豊臣政権』)。北関東の佐竹義宣・宇都宮国綱らも小田原に出仕していたが、彼らはただちに北条方の忍城(埼玉県行田市)攻めなどに動員された。

二十六日に下野国宇都宮に至り、ここで奥羽仕置の第一段階となるが、新たに安東(秋田)実季・相馬義胤らが出仕した。また伊達・最上両氏には、奥羽仕置の補佐(案内)が命じられた。他方で、大崎・葛西・和賀・稗貫諸氏の所領没収などが決定されている。

家康も宇都宮に出仕しており、七月二十八日には秀吉の直書が下され、翌二十九日付で家康は黒田孝高(官兵衛)・水野忠重宛の請文を呈している。

これによって家康の関東転封の態勢が最終的に確認されるとともに、次男秀康が結城氏の跡目を継ぎ、一〇万一〇〇〇石が与えられた。