松本潤さん演じる徳川家康が天下統一を成し遂げるまでの道のりを、古沢良太さんの脚本で巧みに描くNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。第37回では秀吉(ムロツヨシさん)と側室・茶々(北川景子さん)の間に長子・鶴松が誕生し、跡継ぎの誕生に勢いづく秀吉は北条攻めを決定。和平を主張する家康だが、秀吉は先陣を命じ――といった話が展開しました。
一方、静岡大学名誉教授の本多隆成さんが、徳川家康の運命を左右した「決断」に迫るのが本連載。今回は「なぜ江戸だったのか?」についてです。
小田原攻めの論功行賞
天正十八年(一五九〇)七月十三日に小田原城へ入った秀吉は、ここで小田原攻めの論功行賞を行なった。
家康にはほぼ北条氏の旧領である伊豆・相模・武蔵の全域、 上総・下総・上野の大半と下野の一部が与えられた。
三河・遠江ほか家康の旧領五ヵ国は、織田信雄に与えられることになったが、信雄が尾張・伊勢にこだわってこれを拒んだために改易(取り潰し)され、下野那須(栃木県那須町)二万石に移された。
このため東海道の諸城については、豊臣系大名がいっせいに配置されることになった。
すなわち、駿河一国は中村一氏に与えられ、一四万五〇〇〇石で駿府城に入った。遠江では、懸川城には五万石で山内一豊、浜松城には一二万石で堀尾吉晴、横須賀城には三万石で渡瀬繁詮、三河では、吉田城には一五万二〇〇〇石で池田輝政(池田恒興の次男)、岡崎城には五万七四〇〇石で田中吉政であった。