なぜ家康はこの名前を付けたのか

そんな状況で、側室のひとりに阿茶、別のひとりに茶阿、という名称を与えますかね…。どういうつもりか、家康に詰問したくなりませんか?

なお、これが織田信長だったなら「まあ、シャレかな」と受け入れられるかもしれません。何しろ彼は6男と7男に「大ぼら」「小ぼら」と名付けをするような人ですから。

でも、そこは真面目な家康。いったい何を考えていたのでしょうか。

ちなみに阿茶の局はもともと「須和」、茶阿の局は「久」という名だったそうですから、他の側室のようにお須和の方、お久の方でよさそうなものです。

もしかすると、須和や久というのは後世の名付けで、2人は実名が「茶」だったのかもしれません。お茶は当時大人気でしたし、この字が名前として盛んに用いられていたとしてもおかしくありません。それで1人は阿茶、1人は茶阿にした…とか。