「阿茶の局」と「茶阿の局」?

彼女は武田家臣の娘。同じく武田の武士であった神尾忠重という人物に嫁ぎ、男子2人を儲けますが、夫とは死別します。そののちに家康と結ばれ、戦場にも付き従ったそうです。

家康の子を生むことはありませんでしたが、奥向きのことは全て任され、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、淀殿の妹である常高院や、淀殿女官筆頭の大蔵卿局らと会談して和議の成立に尽力しました。

いま学界では、彼女のように活躍した女性を「女性官僚」として積極的に捉えようとする動きがあるようです。

ただし、ここで気をつけておきたいのは、家康の側室には茶阿の局(ちゃあのつぼね)、という女性もいたということ。

彼女は家康の6男・松平忠輝と、7男・松平松千代を産んでいます。茶阿の局は1550年頃の生まれだそうですが、阿茶の局は1554年で4歳の年少。つまりは同時期に家康と寝所をともにしたといえそう。