「若者の**離れ」の真実
幸福観の変化は、消費に対する価値観をも変化させる。
モノを所有することがステータスかのようにマスメディアの広告は消費を喚起させ、必要ではないが生活を豊かにする(生活が豊かであるように見せつける)ことができるモノを人々がこぞって消費していた時代があったのも確かである。
しかし、このような消費の根底には「画一化された幸せ」があり、消費によって描けた幸せのビジョンやモノやレジャーに溢れていること自体が幸せだったから成立していた価値観であったともいえる。
しかし、お世辞にも景気がいいとはいえない情勢や、そもそも画一化された幸せを魅力的であると思わないZ世代も多く、自分が必要としないモノに対して消費を行う際に理由や根拠を必要としているように思われる。
「ゴルフやれよ」「いい時計つけろよ」と、ある種ステータスを構築する消費を勧められても、「なんで(生活も苦しいし、欲しいモノも買えないのに、見栄を張って)欲しくもないモノを買わなくちゃいけないんだ?」という疑問が生まれてもなんらおかしくはない。
若者の消費に対する消極的な意識が「**離れ」という形で揶揄(やゆ)されることもあるが、極論、どれもタダでもらえるのならば拒む人などいないのではないだろうか。
だとしたら、そのモノやサービスが拒まれているわけではなく、自分自身の生活や収入などを考慮したうえで「必要ない」「購入することができない」と判断し、消費行動に移されていないだけにすぎない。
お金がないから画一化された幸せに手が届かず、手が届かないからそれを幸せとは認めないという見方ができるかもしれないし、画一化された幸せに手が届かないから違う形で幸せを見出しているという見方もできるかもしれない。
どちらにせよ、自分たちが生きていくうえで、その不必要な消費によって生活が困窮するくらいなら消費しない、という価値観が生まれることは当たり前といえば当たり前だ。