彼女は、偽りの人生で確かに成長していく
1995年に渋谷で起きた毒ガス散布事件。加害者は「光の心教団」幹部男性と、何も知らず同行していた23歳の女性信者だった。
年代や加害者の設定から、実在の事件を思い起こさせるあらすじだ。
主人公・岡本啓美は逃げていく。命じられて付いていっただけなのに、いきなり追われる立場になってしまう。しかし彼女の逃亡劇はここから始まったわけではなかった。
啓美は幼い頃からバレリーナになるよう、母からプレッシャーをかけられてきた。つまり事件以前は母親から逃れて、教団に入ったのだった。
そんな彼女をかくまい、逃亡を助ける人たち――父の新しい妻、事件を追うフリーの女性記者――にもそれぞれ複雑な事情がある。
姿を変え、他人になりすましても、心までは変えられない。中でも啓美が出会った外国人技能実習生のワンウェイは、彼女にとって生きる希望であり、一緒には生きられない絶望でもある。中国では多いというその名の意味が、英語で「一方通行」なのが意味深長だ。
本名を名乗れない17年間、警察から、世間から逃れ、後戻りできない人生を歩んできた啓美。いつかは捕まる、と心のどこかで悟っているようだ。逆に逃げきろうとしていたなら、こんなに惹きつけられなかったと思う。読書中、あの事件のことはすっかり忘れて、いつしか啓美の気持ちに寄り添っていた。
誰もが家庭や社会に生きて、それぞれ自分の役割を演じ居場所を得ている。啓美のように母から過剰な期待をかけられ苦しんでいる時に出合った宗教が、居場所になってしまうこともあるだろう。
自信のない若者だった啓美が、逃亡生活の中で働き、恋をし、段々と強く、たくましく成長する。偽りの人生であっても、ささやかな幸福を諦めない、そんな姿に心動かされた。
闇を照らす蝋燭のような明るさをたたえた一冊。