(写真提供:Photo AC)
大河ドラマ『どうする家康』『麒麟がくる』などには著名な戦国武将が登場します。しかしその裏に、もっと注目されてもいい<どんマイナー>なご当地武将が多く存在する!と話すのが「れきしクン」こと歴史ナビゲーター・長谷川ヨシテルさん。長谷川さんがそんな彼らの生涯をまとめた著書『どんマイナー武将伝説』のなかから、今回は「みちのくの雄・九戸政実」を紹介します。

秀吉と戦った最後の戦国大名

「問題です! 豊臣秀吉による天下統一は何年に、何の戦いで成し遂げられた?」

そう聞かれれば「1590年(天正18)の小田原攻め(征伐)!」と答える方がほとんどかと思います。

ところが、実は天下統一したはずの秀吉は、翌1591年(天正19)に東北に大軍を派遣して九戸(くのへ)城(岩手県二戸<にのへ>市)というお城を攻めているんです。この戦いを「九戸政実(まさざね)の乱」と呼び、城将はその名の通り九戸政実です。

教科書には登場しないこの合戦以降、国内では秀吉と争う大名はいなくなっていますので、政実さんは、カッコよく言うと“秀吉と戦った最後の戦国大名”ということになります。

珍しい名字の「九戸」ですが、これは領地だった九戸(岩手県九戸村)という地名に由来するもので、現在の岩手県から青森県にかけて一戸(いちのへ)から九戸までがあり、今も地名として使われています。

この「九戸家」ですが、名門の「南部(なんぶ)家」の分家にあたります。南部家は「三日月の丸くなるまで南部領」(三日月が満月になるまで歩いてもまだ南部領)と歌われたほどの広大な領地を持った東北屈指の大名でした。東北の名産品である南部煎餅や南部鉄器などの名前は、この南部家に由来するものです。

政実さんは『二戸郡誌』などによると1536年(天文5)生まれと考えられるので、織田信長よりも2歳年下、のちに戦う秀吉よりも1歳年上にあたります。

三戸(さんのへ。青森県三戸町)を拠点とした南部家の本家に仕え、1569年(永禄12)には鹿角(かづの。秋田県北東部)に侵攻してきた安東愛季(あんどうちかすえ)を撃退して鹿角を奪還するなど、南部軍の大将を務めるほど武勇に秀でた人物だったようです。

また、室町幕府の将軍家からも一目置かれる存在だったらしく、1563年(永禄6)の幕府に従う家臣や大名の名簿(『永禄六年諸役人附』)にも、本家の当主である南部大膳亮(だいぜんのすけ。晴政)と並んで九戸五郎(おそらく政実さん)の名が記されています。

また『南部史要』(1911年刊行)には、「一万七、八千石の領地があり、家臣の筆頭であるだけでなく、富は宗家を越えていた」と記されています。