沼田町のさらに奥にあった昭和炭鉱の社宅の全景。手前の大きな建物は選炭場(写真:沼田町産業創出課)
2024年上半期(1月~6月)に『婦人公論.jp』で大きな反響を得た記事から、今あらためて読み直したい1本をお届けします。(初公開日:2024年03月08日)******インターネットなどを通じてあらゆる情報が整理された昨今、世界のどの場所でもクリック一つで見ることができるようになりつつあります。そのような中、「今なぜ異界の回復が必要か。生きることが過剰につまらないからです」(『ルポ日本異界地図』宮台真司インタビューより)と発信するのが編集プロダクション・風来堂です。今回、その風来堂が手掛けた『ルポ日本異界地図』から「昭和炭鉱」の記事を紹介します。

約40年で栄え、消えた炭鉱街

昭和炭鉱[北海道雨竜郡沼田町]

現人口をはるかに上回る人口密集地が山奥にあった

人口3000人前後の北海道雨竜(うりゅう)郡沼田(ぬまた)町。この町に、かつて現人口を上回る約4000人もの住民が住む街が存在したエリアがあった。そこだけでひとつの街として成立していたそのエリアこそ、沼田町の北部、昭和地区に開発された昭和炭鉱の炭鉱町だ。

1900年代半ばに石炭採掘で栄えた昭和炭鉱はピーク時に年間生産量約22万9000tと道内の炭鉱でも有数の生産量を誇った。

1894(明治27)年に移住した開拓民18戸をルーツとする沼田町は現在でも旭川(あさひかわ)から車で1時間以上を要する。冬場の年間累計降雪量は10mを超える豪雪地帯だ。そんな沼田町のなかでも市街地からさらに車で30分ほど北上しなくてはならない地域に昭和炭鉱は開発された。

開発当時、そこには木々が生い茂る原生林が広がっていた。真冬ともなれば雪に閉ざされる。そんな未開の地に築かれた街にもかかわらず、炭鉱周辺には炭鉱事業者や鉱員とその家族が暮らす街が築かれていたのだ。

危険な重労働と引き換えに高い給与を得ていた鉱員は羽振りがよく、沼田市街からやってきて昭和地区炭鉱町で店を開いた商人たちにも多くの利益をもたらした。炭鉱が沼田町の経済を支えていたのである。

ところが、1960年代のエネルギー革命で風向きが変わる。国内エネルギー需要のメインが石炭から石油に転換し、昭和炭鉱も全国の炭鉱と同じく、閉山の憂き目に遭う。鉱員や住民は炭鉱から去り、賑わいを見せた炭鉱町も、みるみるうちに人がいなくなった。

沼田市街と炭鉱を結んでいた鉄道も閉山とともに廃線となり、もぬけの殻となった炭鉱は森のなかに取り残されてしまったのである。