豊潤な感受性に触れられる名著
ブンガクは、生活のなかのそこらじゅうにある。朝歩いた道のなかにも、反復する毎日の食卓にも、いまこの文章を読んでいるその空間にも。私が大学の頃に出会ったフランス文学の教授は何度もそう言っていた。
「文学」と書くと立派な学問のように感じるが、学問であると同時に「日々感じるなにか」であり、それは言葉にしようにもしがたい。それが「ブンガク」なのだとその先生は言っていた。
そしてその言葉の意味が、本書を読んでわかってきた。本書は、『夕暮れに夜明けの歌を』でロシア文学者としての地位を不動のものにした奈倉さんのエッセイ集だ。
目と頭と身体を通して、私たちは奈倉さんとおなじような光景を見ていたはずなのに、まったくブンガクを感じられてはいなかったのではないか、と思えてくる。それほどに豊潤な感受性に触れ、干からびていた身体がブンガクを浴びて潤ってくるようだ。
幼い頃、友人の父親にたいして好きでもなかったのに「クルミ好きか」と聞かれ、うなずくと、「クルミが好きな人に悪い人はいない!」と喜んでクルミをくれた記憶。そこから「好き」を分かち合うこと、そしてそれが「国という行政単位のしがらみに曇らないように」、ものや人を守る人々にまで想像が及ぶ。
著者の記憶からシーシキンやトルストイが引き出される。好きな人ほど「面影」は思い出せるのに「顔」が思い出せないという体験から、ブロークという詩人の作品を想起する。
生活のふとした気づきから、ブンガク的記憶(自分の過去のブンガク的体験)と文学的記憶(作家と作品といった学術的な意味で)が呼び覚まされる。読者は共感と発見に誘われる。
その昔、立川談志は「伝統を現代に」と、古典を現代的に味わう導線を付して落語を蘇生させた。言ってみれば本書は、「ブンガクを現在に」である。ブンガクとは常に社会的で普遍的なものであることを教唆する。この本自体がブンガクの塊だ。名著です。