骨身にしみる
実るほど頭を垂れる稲穂かな。辞書には、稲の穂に実が入ると重くなって垂れ下がるように、学徳が深まると、かえって他人に対し謙虚になることのたとえとあった。子どもの頃は、偉くなっても威張ってはいけませんという単なる注意喚起だと思っていた。
仕事を始めてから、見解は少しずつ変わっていった。骨身にしみ始めたのは30代前半からだ。できることが増えれば増えるほど、できないことが鮮明になる毎日に唖然としていたから。なんでもできるとうぬぼれ、尊大だった20代の自分を土に埋めたくなった。
国籍不明の偽名で仕事を始めて15年くらいになるが、頭を使って考え、私にできることを工夫してやっている。他人様のお金や時間を拝借したら、相手に損をさせてはいけないから。
そして、やればやるほど思う。私にしかできないことなど、ひとつもない、と。「おまえの代わりなんかいくらでもいる」と言われた経験は一度もなく、自分が取るに足らない存在だと感じているわけでもない。もっと朗らかに、古(いにしえ)から存在する自明の理として、私でなくてはダメなことなんて、少なくとも仕事においてはまるで存在しないとしみじみ思うのだ。こう考えられる状態を、私は非常に健やかに捉えている。
発注された仕事に120パーセントの結果で応えれば、次の仕事がくる。それはそう。締め切りをちゃんと守れば、依頼はまたくる。これも本当。発注したい仕事の第一想起に自分が出てくるようになれば、まあまあ安泰。それも事実。
だが、それだけでは好機は続かない。2度目のチャンスは巡ってきても、チャンスが次の大きなチャンスを呼び、恒常的に連鎖するまでには至らない。一生懸命やってもやっても同じところから進めず、やがて疲弊することになる。意地の悪い話だが、他者の働きを見てそう感じる場面が多い。