年下の男
「婦人公論」1969年7月号に、富岡多惠子のエッセイ「私にとって大学闘争とは何か」が掲載された。イラストは、菅木志雄とある。同誌に菅の名前が登場するのははじめてで、ちょうどふたりが原宿の白い教会で結婚式を挙げた時期だった。それから、時折、富岡の文のイラストを菅が描くようになり、妻の本の装丁もしばしば夫が手がけることになっていく。
結婚して4年が過ぎて、富岡は「婦人公論」に「女にとって二度目の男とは」と題したエッセイを寄稿した。病気のような情熱で一緒になった最初の相手と別れたころに現れたとして、出会った当初の菅をこう描写する。
〈親に時には無心をいい、定職はなく、無口で、ことに女と喋るのは嫌いで、というよりオンナが嫌いで、なにを考えているのやらさっぱりわからず、稼ぎもなく、ということは世を渡る才覚いっさいなく、じつに偏屈で、他人にお世辞のひとつもいえず、イヤなことはイヤだといい、これからどうなるかわからぬ、二十五歳の男〉(「婦人公論」1973年10月号)
年下婚という言葉などなく、歌手の小柳ルミ子と13歳年下のダンサー大澄賢也との結婚がワイドショーでスキャンダラスに扱われたバブル真っ盛りのときから20年も前のことである。池田満寿夫と別れたばかりの詩壇のスターと9歳年下の無名のアーティストの結婚は、周囲にちょっとした波紋を巻き起こした。74年に富岡が仏文学者の多田道太郎と出した対談集『ひとが生きている間』では、リベラルな多田でさえも、24年生まれという世代ゆえか、〈今の旦那さんみたいな坊や〉という言い方をしている。
だが、詩人はそうした周囲の眼はわかっていながらも、とりあうことはなかった。
〈わたしははっきりと病気にかかっていなかった〉が、〈ひとりでこれから死ぬまで生きていくのはいやだなあ、とはその時思っていた。ひとりでも生きていけるかもしれないが、なるべくそうならない方がいいなあ、と思っていた〉〈思想の一致なんてわたしは後にも先にも期待しない方で、生きていく態度が似ておれば十分だと思っている〉(「女にとって二度目の男とは」)