サラリーマン武士の移動
参勤交代の大名行列の1~2割しかいなかった正規の藩士の移動について見ていこう。
江戸時代の藩士は、知行(ちぎょう)取という上中級の武士であっても、直接土地を支配して経営する地方知行ではなく、藩が年貢として集めた蔵米を知行高に応じて支給される蔵米知行を受けていた。つまり、大部分の武士は経営者や個人事業主ではなく、仕事をして給料をもらうサラリーマンであった。
藩主は参勤交代により国元と江戸の二重生活を強いられていたため、藩の組織も基本的には国元と江戸の二大拠点に分かれており、場合によっては上方の蔵屋敷や遠方の飛び地を支配するための代官所などの出先機関があった。サラリーマンとなった藩士たちは、そのいずれかに配属されて日々勤務に励んでいた。
ただし、基本的には居城があって領地経営の中心となる国元に重点が置かれていたため、高給取りも含めて城内あるいは城下町の武家地に居住している藩士が多かった。
家臣団の組織は各藩により異なるが、家老や年寄と呼ばれる重臣をトップとして、「表」と「奥」に分かれていた。「表」は軍事機構である「番方」と、行政機構である「役方」に分かれる。
イメージとしては、番方のほうが古くから藩主家に仕えてきた由緒ある家柄の藩士が多く、役方は能力重視でソロバンや事務処理能力に長けた藩士が多い。一方の「奥」は藩主の家政機構であり、藩主とその家族の身の回りの世話をする役職である。一人の藩士が出世する過程で別の機構に移ることも珍しくなかった。
藩主の身近にいなければならないのは、当然「奥」の藩士である。藩主が江戸にいるのに小姓が国元にいてもやる仕事はない。したがって、参勤交代で藩主とともに移動するのは必然的に「奥」の藩士が多くなるが、参勤交代は軍役であるため足軽隊を率いる番方の藩士も含まれていた。
藩主が国元から江戸へ参勤する場合、多くの藩士が行列に加わって江戸へ行くことになるが、江戸へ着いた後の動きは2パターンある。一つはそのまま江戸に残って江戸藩邸で単身赴任し、次に藩主が国元へ戻る際に一緒に国へ帰る「勤番(詰切)」。もう一つが江戸に着いたら数日間休暇をとった後に国元へ引き返す「立帰(たちかえり)(道中計<どうちゅうばかり>)」である。
関東近郊に領地がある藩であれば立帰でも何ということはないが、薩摩藩のような遠方であれば短期間で往復するのは体力的にも金銭的にもしんどかったであろう。とはいえ、勤番の場合も江戸で暮らしていくための生活費が嵩んでしまった。