(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)
現在放送中のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』で時代考証を担当している駿河台大学教授・黒田基樹先生は、「秀吉も一代で天下人に成り上がるほど有能な人物であったとみなされるが、それを支えた秀長も、相当に有能な人物であったことが認識される」と語り、その政治手腕に注目しています。そこで今回は、黒田先生の著書『秀吉を天下人にした男 羽柴秀長 大大名との外交と領国統治』から抜粋し、再編集してお届けします。

秀長は家康への「指南」を務めた

天正15年(1587)は、秀長は2月から7月にかけて九州に出陣し、薩摩島津家攻めをおこなっていた。

その間の5月4日、徳川家康は秀長家老の藤堂高虎(与右衛門尉、のち佐渡守、1556〜1630)に書状を出していて、戦況を尋ねている(『羽柴秀長文書集』176)。

続けて帰陣後の10月8日にも家康は高虎に書状を出して、そこでは聚楽第屋敷の普請について高虎に助言を求めている(『羽柴秀長文書集』211)。聚楽第屋敷の台所建物の建築は、秀長が担っていて、実際に建築を差配したのが藤堂であった。

これらから秀長は、戦陣から戦況を連絡したり、家康の屋敷普請に協力したりしていたことが知られる。とくに後者の屋敷普請への協力は、まさに「指南」としての役割の一環とみられる。またこれらにより、秀長の家老のなかで、家康への取次は藤堂が担っていたことが知られる。