
朝餉(あさげ)が終わるなり玄白(げんぱく)は、女中と下働きらに家中の塵(ちり)を掻き集めて己の部屋に持ってくるよう命じた。畳の上にずんずん積み上げられてゆく塵芥(じんかい)の山を前にして腕組み、自然に鼻はすんと動く。
「臭うな」
思わず言葉を溢(こぼ)すと、朝餉の残りである大根の切れ端を積み上げたばかりの女中が、こちらに目を寄越してくるのが分かった。その切り上がった目は口ほどに物を言う。
なにをそんな当たり前のことを堂々と。もしやそれを確かめるためだけに、運ばせたんではないでしょうね。一体誰がこの塵芥の山を片付けるのだと思っていらっしゃるのです。
視線は玄白の脇腹あたりをずんぶと刺してくるが、女中らがそう言いたくなるのも無理はない。たしかにこの二年間、己は池の中に着物を沈めさせたり、泥団子をいくつも拵(こしら)えさせたりと突拍子もない命を下してきた。そのような主人の振る舞いに耐えきれず暇乞(いとまご)いを申し出てきた女中らはもう片手では数えきれぬほど。
玄白は腹の底から深くため息を吐く。この女中はよく目端がきく。まだまだ家に居てもらいたいところではあるのだが――。
「たしかに臭いますな。ですからやはり、くさい、ですよ。この言葉で間違いありません」
「そうですな。そうでなければ、わざわざ塵芥を集めよと書くわけがない」
玄白の両隣で男らが二人言葉を交わし合っている。女中からしてみれば、己の主人を入れた男らが三人、塵芥の山を前にして真面目な顔でうんうん唸っている光景はそりゃあ、荷をまとめたくもなるのだろう。女中は慌てたように視線を外し、そそくさと部屋を出ていった。その怯えたような後ろ姿はあと幾日もつものか。
だが、慣れてもらわねば困る、と玄白は目の前の塵芥の山を睨み据えた。
己が今取り掛かっている行いは、あと数年、下手をすれば数十年かかるやもしれぬのだ。
いつの間にやら寄っていた眉間の皺(しわ)を揉み込んでいる間にも、二人の会話は進んでゆく。
「くさい以外の言葉である可能性も考えてみるべきではありませんか。たとえば、嗅ぐ、であるだとか」
「嗅ぐ、ねえ。これだけつらつら長い言葉でありながら、それに当たる和語が二文字ですか。和蘭語(わらんご)ってのはつくづく紙食い虫でございますなあ」
言って右隣の男は嘲るように笑うが、その口角はきちんと上げられていない。ひび割れた口の端が痛むからであろう。これこそ医者の不養生。飯を食う時をも割いて本に向き合う日々が続いているから、体に栄養が行き渡っていないのだ。男の両目の下に貼り付いている濃い隈(くま)も、ここ十日ほどろくに眠らず育て上げたもの。こんな体にした和蘭語に対し、悪口(あっこう)を口にしたくなる心持ちは分からないでもない。だが、このまま悪口尽くしとなっては、今以上に訳述の進みが遅くなる。玄白は二人の会話に勢いよく首を突っ込んだ。そうやって意見を交わして一刻ほど。集(たか)り始めた蝿を手で払いつつ、それでは、と喉を張り上げる。
「ふるへっへんどの和蘭語は和語でくさいという意。その使い方でよろしいですかな」
己のこの言葉に隈の男、中川淳庵(なかがわじゅんあん)は幾度も首を縦に振った。それに力強く頷き返して、手元の手帖に筆を走らせようとした、そのときだ。
「お待ちください」
低い声に遮られ、淳庵と二人して顔を上げる。すると、もう一方の男、前野良沢(まえのりょうたく)が手に持った本を広げ、紙面をてんてん、人差し指の背で打っている。
「おそらく、くさい、ではございません。ここに、木を切ったときに現れるものとの表記を見つけました」
「……木を切ったときに現れる」
くさい、からかけ離れた説明書きに思わず呆然とした声が出たが、淳庵は我に返ったようになって「いや」と大きな声を出す。
「木を切った時にもにおいは出ましょう。くさい、ではないと片付けるのはあまりに早計ではございませんか!」
「そ、そうです、そうです。切り口から滲み出てくる樹液。ありゃあ一度手につけば、湯屋に行くまでにおいが消えない」
なんて淳庵に添いつつも、それがこじつけであることは言った己が一等分かっていた。すでに畳には塵芥の山から滲み出た汁の染みが広がっている。鼻の奥を突いてくるにおいを消し去るまでに、香は幾日焚(た)いておけばいいのやら。丸一日かけて部屋まで塵芥を運ばせたのだから無駄にしたくはないが、焦って適当に和語を当てるわけにはいかぬ。玄白は畳の上に散らばる書物の数々を順繰りに見遣ってから、そびえ立つ目の前の山をもう一度仰ぎ見た。
ここらが潮時じゃあないのかね。
己の頭内から聞こえてくる声は昨日よりも大きく口数も多い。そのうえ、態度も大きくて、ほらようく見ろよ、玄白。お前が今手にしている手帖の薄さ。二年かけたすえに未だに数丁しか進んでいないってのは、あまりにお粗末ではないかしら。和蘭語に堪能な通詞でもない男ら三人が、和蘭の医学書を訳述しようだなんて土台無理なお話であったのだ、と心内の己の言葉はやけに確信を持っていて、気分はどんどん落ち込んでゆく。ああ、そうだよ、そうだよな。玄白は目線を下げて、己の両手をじいと見た。己の手は果たしてこんなことをするためにあるのか。医師の手は人を助けてこそ。毎日書物を弄るせいで指の腹が痒くて疼(うず)くし、高く積み上げられた塵山を片付ける際には己の手も汚れるだろうし――。
ちょいと待て。
玄白は目を見開いた。そうして、己の言葉をもう一度なぞり上げてみる。
手は疼くし、高く積み上げられた塵山を。疼くし、高く。うず、たかく。
「堆(うずたか)くではありませんか!」
いきなりの大声に、淳庵と良沢が一寸飛び上がったのが見えたが、玄白は構わず口を動かす。
「塵芥を寄せよと書かれていたのは、それが発するにおいではなく、その高さに注視させるためであったのです。塵芥を寄せれば、ごみが積み上がる。ゆえに堆い。これであれば木を切ったときにも現れるとの表記とも割り符が合います」
木を切ったときに現れる切り株は、塵山と同じく地面から見て高さがある。
「そして、我々が先月から訳述しているあたりは、顔についての記述が多い。つまりですね、ふるへっへんどを堆いと訳すなら、顔で一等堆いその部位は」
「「「鼻だ」」」
三人ぴちりと答えが合えば、体から力が抜けるのも揃って同じ。でんと畳の上に尻餅をつくと、各々が口から細長い息を吐き出す。少しばかり感慨に浸ってから、
「和蘭語のふるへっへんどは、和語に訳すと堆い。それでようござんすね」
返答がないのを諾として、玄白はのろのろと筆を手帖に走らせる。しかしすでに筆先は乾き切っていた。ちらと目をやれば、陰に置いていたはずの硯も表面がひび割れ、てらてらと西日を弾き返している。
「今日はこの一語で仕舞いですか」
淳庵は小さく呟き「進みませんなあ」と右のこめかみを人差し指で掻く。その指先は投げやりだ。良沢が脇腹を親指でぐっぐっと押し込んでいるのも、よろしくない。二年もの間、同じ部屋に通って頭を突っつき合わせておれば、二人が相当参っている手癖も知れるというもの。
「覚悟はしておりましたが、こんなにも時がかかるとは思ってもみず。やはり『ターヘル・アナトミア』は侮れませんな」
剃り残しの増えた月代(さかやき)を己で叩いて剽(ひょう)げてみせると、淳庵は疲れ切った顔ながらにくすりと口の端に笑みを載せた。おっとこいつはもうひとこえか。玄白は言葉を続ける。
「これだけのものを書いた紅毛人には感服ですよ。いやあ、まったくまったく恐れ入谷の鬼子母神」
唄うように言ってみせたところで、
「なんです、それは」
遮ってきたのはまたぞろ低い声。
「恐れ入谷の鬼子母神とはなんです。なんの意味があって今、それを会話に差し込んだのです」
顔を動かせば、良沢は切れ長の一皮目を真っ直ぐにこちらに向けていた。目玉は西日が当たっているのか真っ赤に染まっていて、背中に冷や汗が吹き出した。一体なにがそれほど良沢の気に障ったのか分からぬが、
「すみません、先生。今のはどうかお忘れを。一寸でも進んだのがあんまり嬉しくってさ」と、ここは素直に頭を下げておいた。
良沢は至極真面目な性分だ。転合も通じぬ人間であることは、玄白も淳庵もとっくのとうに知っている。
「それにしても、ここにきて連日手詰まりとなってきておりますな」と淳庵がするりと話を変えるのももう手慣れたものだ。
「いい加減、人の手を増やした方がよいのではございませんか」
「その件については訳述を始める際に散々話し合ったではありませんか」と玄白も、それきたとばかりに話を受ける。
「手伝ってくれるよう声をかけられるお人が、各々いないとの落着に」
「噂ではございますが、本木良永(もときよしなが)との通詞も和蘭語の天文を訳し始めているだとか」
「ああ、その話であれば私も耳にいたしましたよ。なんでもこの宇宙は太陽窮理。太陽を軸にして我らの住む地球も含めた天球が回っているだとか」
「ほお、そいつは面白い。その本木とのお方にご助力をお願いするのもよいかもしれませんな」
「ええ、ええ。私と淳庵さんは医師ではありますが、和蘭語についてはからっきし。これ以上、前野先生お一人にお任せするのは忍びないですから」
我々はあなたを気遣っているのです。暗にそう伝えたくって口にした言葉であったのだ。しかし、ばちりと畳の叩かれた音は大きく、玄白と淳庵の肩はびくついた。
「『ターヘル・アナトミア』の訳述に、私一人では不満とおっしゃられるのか!」
こんなにも良沢が怒ってみせるのは初めてで、玄白は慌てたようにその張り詰めた膝に手を置いた。
「い、いえ、いいえ! 先生に不満なぞ持っているはずがございません」
「そうですよ」
淳庵も焦ったように湯呑みに茶を注ぐ。それを良沢に差し出しながら、褒め言葉も舌に載っける。
「今日まで訳述を続けてこられたのもすべて前野先生のお力ゆえだ。前野先生がいらっしゃらなければ、一丁すら読み進めていなかった」
「いやあ、頭に浮かんだ言葉をそのまま口にするものじゃあございませんな。こんな途中で先生のほかに新しい通詞を入れたのならば、諸々混乱が起こるのが目に見えております」
「ですから前野先生、ぜひとも最後までお付き合いのほどを」
「『解体新書』を出せた暁には、前野良沢のお名前は一等最初にきっちり書かせていただきますから」
と、ここで暮れ六つを知らせる鐘が鳴り、玄白は胸内でほうと息を吐き出した。今日のところもうまく切り抜けられたようだね。こいつが鳴ると、良沢は何をしている最中であろうとその場ですっくと立ち上がるのだ。そのまま振り返ることなく部屋を出ていき、屋敷をあとにする。残された玄白と淳庵は二人して畳の上でのびるのが、いつもの流れ。しかし淳庵の堪忍袋の緒は気づかぬうちに随分と擦り切れていたらしい。
「何です、ありゃあ。我らは一体どうしてあのように腹を立てられなければならんのです」
見れば、淳庵は口を尖らせ、ぷつぷつと言葉を吐いている。
「我らはただ前野先生が大変でいらっしゃるようだから、新しい通詞を入れて肩の荷を下ろして差し上げようとしただけで」
「まあまあ淳庵さん。あの人の癇の虫の居所が分かっただけよかったではありませんか。己以外が訳述に関わるのはお嫌であると。次からこれに触れぬよう互いに気をつけましょう」
愚痴はこれで仕舞いとばかりに肩を一つ叩いてやれば、淳庵は諦めたように帰り支度をし始める。上がり框(かまち)に腰掛け草履を履いている背中は明らかに萎びていて、こいつはいけねえ。明日からの作業のためにも、ここは一つ、手を添えておこうと思った。
「それにしても、訳述を進めれば進めるほど、紅毛人の使う言語の違いが浮き彫りになってまいりますなあ。なのに体の中身は変わらないってんだから面白いことで」
「私からしてみれば」
強い語気に思わず口をつぐんだ。草履のために伏せられている淳庵の顔は見えないが、低いそのお声は続く。
「あのお人も紅毛人みたいなものですよ」
できることなら一度解体してみたいものです。
あまりに物騒なその物言いを咎める間もなく、淳庵は格子戸をくぐって行ってしまった。
玄白は部屋に戻って冷めた茶を飲む。自分はおそらく八つ当たられた。が、それに対する怒りよりも、苦笑が口元に浮かび上がってくる。
だって、ねえ、淳庵さん、と玄白は語りかける。良沢さんがおかしな人間であることなど、あの日に集まった時点でとうに分かっていたじゃあありませんか。
〈つづく〉
