
戦後、海上保安庁で日本周辺の掃海任務にあたっていた浦賀だが、ある日、緊急電により下関へ向かう。そこには多数の掃海艇が集結していた……。当時の日本の難しい立場を背景に約三十年も秘された事実をもとに、日本人にもっと知ってもらいたいと願う直木賞作家の著者が、全力で挑む歴史大作、ここに開幕!
四
「これは、また」
甲板で、六分儀を持ったまま浦賀は立ち尽くした。
ゆるゆると進む駆逐艦響の周囲は、澄んだ紺碧(こんぺき)の海が広がっている。ところどころに白く波が泡立ち、空は透き通った薄青色。南洋の太陽は頭上高くに昇り、白く光っている。左右三〇度ほども艦体を揺さぶられた、前夜までの嵐が嘘のようだった。
海に憧れて海軍に入った浦賀だったが、兵学校を出た時点で日本は制海権を失っていた。外海に出るのは自殺行為に等しく、じっさい南方方面を行き来して兵員、物資を運ぶ輸送船団は片っ端から撃沈された。だから浦賀がいた海は、瀬戸内海と日本海の沿岸に限られる。
潜水艦や航空機におびえず、人間の敵意ではなく、ただ自然の振る舞いと格闘しながら航海できる。はじめて体験する外海と平和に、浦賀は不思議な爽快さを覚えた。
昨夜まで船酔いで寝込んでいた乗員たちも、いまは当直を除いてみな甲板に這い出し、外の空気を胸いっぱいに吸い込んでいる。
南洋の島々に住む現地人は大きな石を貨幣にしている、来襲した米軍機を対空砲火で撃墜した、スコールは汗ばんだ体を洗うのにちょうどよい、などと開戦から響に乗り組んでいるベテランが、虚実定かでない話に興じている。将校の浦賀を見て敬礼くらいは返してくるが、のんびりした雰囲気までかなぐり捨てたわけではない。「もう一度ぶっ放してみたいもんだ」などと、魚雷が装填されていない発射管をポンと叩く下士官もいる。これもまた平和の証(あかし)かもしれない。
景色に見とれていた浦賀は気を取りなおし、手にしていた六分儀を太陽に向けた。どこかのんびりした気配が漂う艦橋に戻り、海図台に取りつく。
久方ぶりに拝んだ太陽が教えてくれた艦位は、嵐の中で航海記録だけを頼りに予想していたそれと大差なかった。浦賀はひとり、ほくそ笑む。
「おう、みなご苦労であるな」
沖山艦長がのっそりと艦橋に上がってくる。島田航海長は艦長に敬礼してから、浦賀に目を転じた。
「艦位はどうだったか」
はい、と浦賀は背筋を伸ばす。島田航海長は大尉で、歳はまだ二〇代。響着任は終戦間際だったから付き合いはさほど長くないが、話しかけやすい雰囲気があり、浦賀にとっては上官というより兄貴分に近かった。
「本艦は現在、北緯一〇度三二分、東経一三八度ちょうどの位置にあります。現状のまま一四ノットで真南へ直進すれば、四時間後にはヤップ島を左舷に視認できるかと」
緯度は南中した太陽の高度を、経度は南中した瞬間の世界時をもとに算出する。と言葉にすれば簡単だが、測定や計算の過程で間違いが生じる。天測の技量は、航海士にとって必須であり、難関でもある。
ほう、と意地悪くうなった沖山艦長は、浦賀が兵学校生徒だったころの航海科教官である。
「四時間後にヒダリゲンだな、浦賀航海士」
艦長は「左舷」の語をことさらゆっくり発音した。
「はっ」
浦賀はやや緊張しながら答える。
「速度そのまま。ようそろォ」
齢も階級も、浦賀と島田航海長の間にある当直の将校が、安心したような声で不要な号令を下した。さすがに海軍を志して操艦が嫌いな将校などいない。たぶん気が小さいのだろう。
当直将校を気の毒に思いながら、浦賀は左舷側に据え付けられた双眼鏡に取りつく。できれば真っ先に島影を見つけたかった。
「右舷に島影」
四時間後、マストにくっついた見張所から伝声管越しに報告があった。海と空しかない左舷を、瞬きもこらえて見つめていた浦賀は、がくりと肩を落とす。
「よろしい。面ォ舵ァじ」
何事もなかったかのような沖山艦長の号令が、浦賀の耳にはむしろ痛かった。復唱とともに舵輪が回り、響の舳先はゆっくり右へ巡る。背後から島田航海長が浦賀の肩を叩いた。
「フネの右と左のどちらかに島が見えるかなど、距離にして一五海里(約二八km)ほどしか変わらん。巨大な地球の上では誤差の範囲だ。貴様の天測もずいぶん上達したな」
浦賀が慰められているうちにも、響が正面に捉え直した小さな影は大きくなり、ヤップ島という固有の名を持つにふさわしい明瞭な輪郭を持つ。海はいつの間にか宝石を溶かしこんだような鮮やかな翡翠(ひすい)色を帯びていた。
島を東から回り込み、響は南に口を向けた港を目指す。一時間ほどして、小ぶりな岸壁が見えた。
ヤップ島はもともと海軍が基地を置いていたが、戦時に陸軍部隊が増強され、最終的には五五〇〇人の兵士と一〇〇名近くの軍属軍夫という陣容を擁するまでになった。
また五〇〇〇トン級の艦船二隻が接岸できるという港、飛行場と水上機基地がある。周囲は環礁に囲まれ、港が建設された入り江のほか上陸は困難だった。
ひっくるめて、底辺二四キロメートルの三角形と説明される小さな島には不釣り合いなほどの防備があった。対して米軍はヤップ島など、日本軍が守りを固める太平洋の島々をあらかた放置し、自らの進撃に必要最小限の箇所だけを次々に陥落させていった。取り残されたヤップ島は補給が途絶したまま終戦を迎え、いまは米軍の占領下にある。
「入港用意」
沖山艦長の号令は常のごとく静かで、だがどこか性急だった。米軍から配給があるとはいえ、ヤップ島の将兵は飢餓状態から紙一枚ほどましになったに過ぎない。一刻も早く復員させたいだろう。
伝令の水兵が艦内スピーカーの送話器に向かって「入港用意」と告げたところで、響の前方少し先で水柱が上がった。やや遅れて、爆音が艦橋にも届く。
「島より砲撃」
誰かが上ずった叫び声をあげた。艦橋の雰囲気が一気に張り詰める。
「威嚇射撃だ、慌てるな」
沖山艦長の声は強く、だが揺らぎはなかった。
「狙いやすい陸から撃って、あんな間抜けな着弾はせん。機関停止。入港用意は中止。浦賀航海士」
はいっ、と浦賀は叫び返す。
「E旗がちゃんと揚がっているか、見てこい」
米軍の指示で、復員船であると示す旗が決まっている。上半分が青、下半分が赤に塗り分けられた国際信号旗のE旗をもとに、その右側を三角形に切り欠いたものだ。
浦賀は艦橋後方の旗甲板に走る。マストを見上げると、青い空を背にしてE旗がはためいている。
「E旗、揚がっています」
駆け戻って報告する浦賀に、艦長はうなずきだけを返し、伝令から艦内スピーカーの送話器を受け取った。
「艦長より達する。いま、米軍から威嚇射撃をうけた。艦橋は健在である。また合戦は絶対にしない。総員、持ち場で待機。軽挙は厳に慎め」
「どうして撃ってきたのでしょうな」
答えを知っているような涼しげな顔で島田航海長が首をかしげる。艦長は「決まっている」と肩をすくめた。
「弾薬をぜんぶ下ろしたとはいえ、本艦の武装はそのままだ。ヤップ島の米軍には、まだ戦い足りない日本人がいる、とでも思われたのだろう」
「艦長は、どうなのですか。まだ戦いたい、とお思いですか」
質問を重ねたのは航海長ではなく、艦長に送話器を渡したばかりの水兵だった。たしか浦賀と同年で、つまりは戦争しか知らない世代だ。終戦後も志願して響に残り、いまは復員に従事している。
「帝国海軍の将校として、国家の敗北は何よりも辛い」
沖山艦長は静かに答える。
「だが敗北には一つだけ、いいことがあった。もう部下や教え子を死なせずに済む」
「港より駆逐艦二、こちらへ向かってきます」
前方を凝視していた見張りが上ずった声を上げる。
艦尾に星条旗を翻した駆逐艦二隻は、左右から響を挟みこむ位置で停船した。両艦の甲板に並ぶ五門の単装砲は、すべて響のほうを向いている。
やがて米艦の片方で、水色の作業服を着た水兵が忙しく動き出した。みな鉄帽と救命胴衣に身を固め、日本海軍でいう合戦準備をすっかり整えている。響はずいぶん警戒されている。
米艦から内火艇が下ろされる。長さ七メートルほどで、数人の水兵とカーキ色の軍服を着た将校がひとり乗りこみ、エンジン音を上げながら響へ向かってくる。臨検するつもりらしい。
響のほうでは、艦長の命令で右舷の舷梯(げんてい)が下ろされる。内火艇は舷梯の下で停止し、銃を携えた兵ふたりと将校が登ってきた。
「日本海軍の浦賀少尉です。本艦は駆逐艦響。官、姓名とご用向きを伺いたい」
上甲板まで至った米軍将校に敬礼して、浦賀は言った。兵学校を出て間もないからまだ英語も覚えているだろう、という理由で艦長から出迎えを命じられている。
米軍将校は、浦賀の若さを見下すように目をすがめたあと、律儀な敬礼を返してきた。
「合衆国海軍のデイビス大尉。駆逐艦アクトン艦長の判断により、貴艦の臨検を行いたい」
浦賀は頭一つ近く高い場所にある顔を見上げた。そういえば敵の顔を見たのは初めてだ。なるほど、わが将兵と同じく目と鼻の穴がふたつずつある、などと妙なことを思う。
デイビス大尉は冷厳とした目を浦賀に投げつけたあと、にやりと笑った。
「君ら、まだカミカゼ・アタックでもやるつもりかね」
かつて艦隊特攻に参加し、だが触雷して落伍した浦賀は、さすがに顔をしかめる。
「本艦の任務は、ヤップ島にいる同胞を母国まで輸送することです。仔細は艦長から説明差し上げるが、この任務はポツダムにおいて連合国が宣言した条項にのっとっている。また貴国の日本占領軍司令部も承認済みと承知しています」
浦賀は強張りを自覚した。はっきりいって、自分の英語力など大したことがない。緊張が、実力以上の英語を喋らせている。
「日本海軍の軍艦が帰国事業に従事するとは聞いている。ただし我々も現地部隊の責務として、兵装を積んで現れた戦闘艦を無視もできない。理解してもらえれば幸いだ」
人が良いのか、破ったばかりの敵を子供扱いしているのか。デイビス大尉は噛んで含めるような物言いをした。
「失礼だが浦賀少尉、齢はいくつかね」
「今年で二二歳ですが」
デイビス大尉は口元に、苦みを混ぜた。
「私の弟も海軍にいた。いまの君と同じ二二歳の少尉だったとき、貴軍が敢行した真珠湾への奇襲で戦死してね。生きていれば、たくさんのジャップを海底に叩き込んでいたはずだ」
デイビス大尉の眼光は、いつのまにか冷ややかさを帯びていた。
「戦争は終わった。だが我が国と貴国がかつてのような穏やかな関係を取り戻すには、もう少し時間がかかるだろう。さて、そろそろ艦長のもとへご案内願おうか」 〈つづく〉
