「でも、それは少しおかしいのです」
お定の口調が急いたものになる。
「申し上げたように、わたしは光陵という方を知りません。わたしだけでなく、伊野屋のほとんどの者が知らないと思います。名前を聞いたことさえありませんでしたから。そういう、見慣れない者が屋敷内に入ってきたのに誰も騒がないというのは変です。おかしいですよ。裏庭は表に比べたら人は通りませんが、それでも全く家の者の目に触れずに動き回れるかどうか……」
「騒ぎは一切、なかったんですね」
「ありませんでした。わたし、念のために下働きの女中たちに尋ねてみたんです。怪しい者がうろついたりしてなかったかって。誰も、知らないと言いました」
お定は勘が良く、頭の回りが速い。しかも、それだけでなく、速やかに動く。確かめるために、知るために、調べるために、自分の頭で考え動ける。これは、なかなかの手練(てだ)れだ。宗兵衛が、お定に自分の看病を任せたのもわかる。おそらく、痒いところに手が届くような親身の世話ができる女なのだろう。
けれど、危うさも含む。
「それに、もう一つ、心に引っ掛かっていることがあります」
お定が目を伏せた。そうすると、目の下の隈の色や皺が深くなり、いっそう老け込んで見える。
「あの日を境に、大旦那さまは急に弱り始めた気がするのです」
末音が顔を上げた。お定をちらりと窺う。
「わたしはお医者さまではありません。治療や病のことなんか、何も知りません。でも、母と亭主を長く看病して、最期を看取ってきました。だから、大旦那さまのご様子がどうしても腑に落ちないのです。だって、先生、庭をお一人で歩けるほどお元気になっていたのですよ。お粥もお汁も美味しいときれいに平らげておられたのです。それが、急に寝付くようになって、寝付いてからたった三月……たった三月で亡くなられるなんて、信じられません。どうしても信じられないのです」
お定の顎が情動に揺れている。
「先代は毒を盛られたのではないかと、お定さんは疑っておられるのですか」
あえて、直截(ちょくせつ)問う。お定が大きく目を見開いた。
「あ、いえ、ち、違います。申し訳ありません。つい、あらぬことを口走ってしまいました。どうか、お忘れください」
お定は両手をつき、平伏に近く頭を下げた。
先代が毒殺されたと噂にでもなれば、伊野屋にどれだけの害が降りかかるか。利発な女は我に返り、自分の過言を詫びたのだ。
「お定さん、これからどうなさるおつもりです」
話柄をがらりと変える。問いかける中身を別のところに移す。
「あ……わたしは、たぶん、このまま雇っていただけるはずです」
「伊野屋の奉公人のままってことですか」
「はい。大旦那さまのお世話をよくやってくれたと、わたしに気持ちがあればずっと伊野屋で働いても構わないと、若旦那さまが言ってくださいました。わたし、他に行き場もありませんし、お言葉に甘えてこのまま働かせていただこうと考えております」
「そうですか……」
当代の主が雇い続けてやるというのなら、お定にとって悪い話ではない。老いのとば口に立つ女からすれば、慣れた場で慣れた仕事ができるなら、未来の不安がなくなりはしなくとも、減りはするはずだ。
減りはする……どうだろうか。
「お定さん」と呼んだ声は、思いの外張り詰めていた。お定の表情が強張る。
「他にお仕事を見つけた方がよかありませんか」
「え……」
「あ、いえね、先代とお定さんは心が通じ合っていたのでしょう。その相手がいなくなった場所にいるというのは、かなり応えるものなのですよ。今は気も張り詰めているでしょうが、葬儀も終わり、初七日、中陰と日が経てば、淋しさが募ってくるでしょう。その淋しさが身体に影響するってことも、ままあるのです。思い切って、先代とは一切の関わりがない働き口を探した方がいいような気がしますね。これは、医者としての忠言です」
お定は唇を結び、黙り込んだ。
「お定さんにその気があるなら、新しい奉公先、探しますよ」
焦りに似た情がせり上がってくる。
嫌な気分だ。伊野屋に光陵の影がちらついているのなら、離れた方がいい。なるべく早く、なるべく遠くへ。
ややあって、お定が口を開いた。
「先生、先代はなぜ亡くなったのでしょうか」
「なぜって、それは病が進んで……」
「本当にそうお考えですか。本当に」
「考えていますよ。それより他に考えられませんからね」
「でも、先生、おかしいとはお思いになりませんか。だって」
「お定さん!」
強い口調で、お定を遮る。
「先代は病死です。間違いありません。お定さんが何を言おうが、何を疑おうが揺るがない事実です。それを忘れないように」
お定から視線を外さぬまま、言い切る。
「いいですね。よけいなことは考えず、新しい生き方を探しなさい」
お定は何も返事をしなかった。語気をさらに強める。
「伊野屋からは去るんだ。なるべく早いうちにね。わかったかい」
「……わかりました」
お定は一礼すると、立ち上がった。
「お定さん」
出て行こうとする女を呼び止める。
「行き場がないというなら、ここに来ればいい。患者の世話を頼みたいし、嫌なら、あたしが新しい仕事を見つけてくる。だから、明日にでも荷物を纏めて、おいでなさい」
お定が振り向く。ゆっくりと腰を折る。そして、去っていった。
「おゑんさま」
末音が長い息を吐いた。
「何とも、ややこしいことになりましたなあ」
「そうだね。かなりのものだ」
「光陵が現れたことと、越冬虫、吉原での殺し。絡んでおりますかの」
「絡んでいてほしくはないが、ほしくない方に傾くってのが世の常だからね。ともかく明日、伊野屋を覗いてみるよ。線香の一本もあげさせてくれと頼めば、無下にもできないだろう。あたしなりに、先代へのお別れをしときたいしね」
「それで、お定さんを説得して連れてきますか」
「できれば、そうしたいけどねえ。無理強いはできない」
末音が頭を軽く横に振る。
「おゑんさま。今回の件、ややこし過ぎますで。一人で動き回らぬ方がよろしいでしょう。あの若衆に助力を頼むのが良いかと思いますがの」
「そうだね。けれど、その前にあたしのお頭の中身を整えなくちゃならない。甲三郎さんに何をどう頼むか。それさえはっきりしてないんじゃお話にならないよ」
末音の言う通りだ。あまりにもややこしい。おゑんの手には余る。
「それに、助力を頼むなら、ある程度は打ち明けなくちゃならない。何も伝えずに、手を貸してくれとは言えないからね」
甲三郎なら何も聞かず助けてくれるだろう。けれど、そこまで甘えられるはずもなかった。さらけ出す覚悟もなく、甲三郎に甘え、寄り掛かるわけにはいかないのだ。
さらけ出す覚悟。
「まったく、どうしてこうも……」
生きるとは厄介なものなのだろうか。
おゑんは奥歯を噛み締める。
末音は薬草を揉むように、手を動かした。
そして、二人目の女は宵闇が迫るころ、現れた。
「先生、お久しゅうございます」
よく通る声で告げると、おゑんに笑みを向けた。












